男石が雄々しくメインストリートに復活する日はくるか―
東信史学会(長岡勝衛会長)が発行する機関紙に掲載の研究論文で、東御市田中にある巨大な「男石」の歴史が紹介されている。
かつて、大水害で壊滅した宿場再建時に守護の地蔵尊と一緒に表通りに置いたという大きな男根石。
加賀百万石のお殿様も感嘆した善光寺街道(北国街道)名物の町のシンボルが、今は裏小路の堂でちんまりと訪ねる人もなく納まる姿を前に、「(もともとあった駅前交差点付近に)雄々しく鎮座するのはいつのことか」と言っている。
同史学会が定期刊行する学術研究誌「千曲」第143号に掲載した岡村〇彦さん(小諸市)研究論文「田中勝軍地蔵の系譜」で男石ふれ報告した。
この男根の形をした自然石=写真=は、街路整備を終えた通りと離れ、田中薬師堂の境内のお堂に納めてある。
高さ約1.3㍍、一抱えほどの太い円柱状の堆積岩の上、丸型の岩がのっている。根元には二つの球状の岩石を据えている。
岡村さんの調査によれば、旧田中宿の枡形(防塞の必要から、道を直角に曲げた)にあった羅漢堂に、石仏の勝軍地蔵と一緒に置かれていた。建立当時の直接的な記録はないものの、勝軍地蔵の検証などから、「寛保2年(1742)の大水害・戌の満水の土石流で壊滅した宿場の復興時に流失した羅漢堂の再建とあわせ、町の安泰と発展を祈願し、守護の地蔵と並べて一緒にまつった」と、している。
羅漢堂は、明治の廃仏き釈で廃堂となり、男石は対の地蔵尊と切り離して、現在の薬師堂の隅へ移設。通りすがりの地元の人の話では、「この小路には遊郭があり、明治以降の蚕糸業の隆盛とともに賑わった。男石は、この女道にあって、難除けの信心を集めたと聞いている」という。
街路近代化事業にあわせて、勝軍地蔵尊は、かつて羅漢堂があった駅前交差点通りの脇に移転。造形の巧みさもあって市指定の有形文化財となり、今も町を守護しているかのようなたたずまい。ひきかえ、男石は表に出る事もなく、一見日陰の扱い。子孫繁栄の象徴に町の発展を重ね、おおらかに健やかに男石を称えた時代は遥か、「かけがえない郷土の歴史文化財としての考察を踏まえ、東御市のシンボルとなる日を期待したい」と関係者は話している。