日別アーカイブ: 2011年4月5日

明治の人

ボクの祖母は明治生まれの人だった。

ボクのグラグラ乳歯を硬い爪で引き抜いた人。生垣を這うマムシの首をつかみあげ一升瓶に放り込んだ人。焼酎漬となった蝮がいつのまにか病み上がりの者の強壮ドリンクや捻挫の湿布薬になったこと。晩年、畑で脳卒中をおこし這いずって家まで戻り来た人、その時の目をぐっと大きく見開き歯をくいしばっていた顔は、今も強烈な残像だ。キセル煙草の紫煙…….縁側でお茶をゆっくりとすする姿がどことなし凛(りん)として、おぼろげながら硬派の明治堅気というようなもの感じたものだ。

戦争で連れ合いを亡くしていた祖母は、戦中戦後の一時期、闇米の担ぎ屋をしていた。農家を渡ってかき集めた米や雑穀をザックにしこたま詰めては、列車で東京へと運び、売る。道端の草まで喰ったという時代だった。

闇屋にとって熊谷、大宮あたりが難所で、官憲が査察で強制的に列車を止めたという。満員の車内や列車の屋根は右往左往の混乱ぶり….そんな渦中、一人の大柄の男に助けられたと聞いた。男は闇米の詰まった荷物を足元に引き寄せ、査察の官憲を前に姓名を名乗り、祖母の闇米を自分の私物として引き渡さなかった。

小山邦太郎…….北佐久地方にあって、ボクの世代以上の者でこの名を知らぬ人はいないことだろう。ボクにとっては、小学校の修学旅行の国会議事堂見学を案内してくれた人、ただそれだけの人だとしか覚えはなのだが、終戦をまたぎ衆・参議員や市長を務めた小諸出身の生粋の昭和の政治家だ。

その自分の名を盾にして、無法の闇米を「私の荷物」として守ってくれたこの人物は、以来、祖母のヒーローとなった。祖母は亡くなるまでこの名を投票用紙に書き続けた。たとえ、その選挙が市議会や県議会選挙であったにしても、「邦太郎さんと比べれば貧相だけど」などとつぶやきつつ、いつも選択の基準にしていた。

過去の時代世相を知らぬ者にすれば、この名は、誇らしくもただ伝説の虚飾をまとっているにすぎないと思えるのかもしれない。しかし翻って、今時の政治家……明治生まれの祖母の眼からすればきっと、どの面見てもセコく嫌気がさす気がする。

目の前の人を見ず、想いを汲まず、思いつきの政策ばかり。上滑りのそんな政治家を目の当たりにするにつけ、商人でも学者でも、まして役人でもない本物の政治家の顔を描いてみる。

祖母は棄権しない人だった。一票の重さを人の重さと知る生粋の政治が欲しいと切に思っている。      

小山邦太郎 こやま・くにたろう (1889~1981) 参照 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jinbutsu.html     

長野県出身。神戸高中退。1914年(大正3年)家業の蚕糸業を継ぐ。1928年(昭和3年)第1回普通選挙に当選、以降連続6回当選。鶴見祐輔らと明成 会を結成。1929年、民政党に入党。1940年米内内閣の海軍参与官、1945年鈴木貫太郎内閣の陸軍政務次官。蚕糸業国策運動を起こし31年蚕糸業組 合法成立に特別委員会委員長として尽す。1946年(昭和21年)全国森連会長。公職追放となり解除後50年から小諸市長をつとめ56年参議院議員に当 選。3期つとめ74年引退。井出一太郎は女婿。

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