月別アーカイブ: 2011年11月

梅野隆さん

東御市八重原の市立梅野記念絵画館ふれあい館の館長・梅野隆さんが今年7月亡くなった。八十五歳だった。

今にして思えば、この一流の眼力を備えた人を案内役に、何度、美の深淵に触れさせていただいたことか。贅沢にすぎる時間だった。五年ほど前(平成19年)に美術館を訪ねた際、子育てに話が及んだ。以下、梅野隆さん(当時81歳)の話…..

『昨年、千曲市の戸倉上山田中学校で行った学校を丸ごと美術館にするプロジェクトに参加したことがあります。いきさつを話せば、多くの公立美術館が作品管理上の都合から外部への作品の貸し出しをしぶっている、と聞いたもですから、それでは、せっかくのプロジェクトが台無しになる。芸術に触れたいという子供たちの思いを汲むこと、これは当然として、本来、多くの人に鑑賞してもらうためのアートであり美術館ではありませんか。行政内組織(公立美術館)の内向きのしばりや判断が芸術文化を遠ざけるような結果を招いてはいけません。それでは結果的に、欲得勘定で芸術を扱う俗な風潮とたいして変わらないぞと誤解をまねく。美が堕ちると思いました』

『子育てもまた同じでしょう。欲得を抜きにした判断、つまり、育成や創造の基盤となる子たちの感性や、さきがけとなる人々の純粋な気概を妨げてはなりません。自由さ(自由環境)が肝要です。様々な個性的な育成活動を認める広い視野が行政には不可欠でしょう。本物の地域の育成活動は見極められるものです。絶えず継続しているか否かも判断材料にすればいい。真偽はわかる。純に良いものは淘汰の中で残ります。そうした息の長い時間も大事』。

『私は、人にとって大切なものは『真・善・美』と思います。だから、幼い子が美に感動する芽吹きの心根を大切に子達に接したい。例えば、絵の上手下手(技術評価)に頼るのはおかしな話。見て感じたものを描く、それをほめる事(観念的なお決まりの制止、また、他者との比較ではなく、まず子の感性に共感する事。)。この共感のコミュニケーションが『感ずる教育』の基本です。やがてこれが『好き』に変わる。この『好き』を土台に、心の中にどんどんより善き世界が広がっていく。これが育てるということだと考えます』。

ボクは梅野さんのこの話を新聞記事にした。当時、東御市では青少年健全育成条例の制定をめぐり賛否両論が渦巻いていた。成人向け図書等の無人販売機撤去運動にはじまるこの条例化(法律化)は、市が青少年の育成環境の全般を包括するものへと拡大させた結果、淫行規定なる条項を盛るものとなり、議論は条例そのものの是非(必要性)にまで及んだ。行政が主導する条例制定化の渦中、かりにも市営施設の館長職である梅野さんに、「淫らな性行為についてワザワザ市民に問うている淫行条例なるものをサテどう思うか、是か非か」と大上段に問うわけにもいかなかった。だから、『この地の青少年育成はどうあるべきでしょう』と質問した。梅野さんは子育てについて語った。文中の言葉の端々に、取材の真意を汲んでくれていたやに思う文言があることをお分かりいただけると思う。

『戦後教育を受けたあなたと、この私では、教育についての考えが違うかもしれません。しかし、今様の子育ての話を耳にはさむにつけ、寂しいと思うことはありませんか。家族の朝の目覚めは、台所から聞こえる母の包丁の音と味噌汁の香りと共にありますか。鳥や獣が噛んで含んで与える大事な『食』を、金を与えて済ませてはいませんか。教育や躾(しつけ)の基盤であり、暮らしの核芯であるはずの家庭は今、何かを失くしてはいませんか。みなさんもきっと感じているでしょうから、そうは心配していませんけれど…..きっと大丈夫でしょう』

肝を据えて話をする人だった。素のままにして金剛の気骨がにじむ人だった。梅野さんの名前を冠した美術館は、おらが故郷の美術館だと、ボクは誇りにしている。(谷嶋成仁)

 


 

写真は2008年7月井上有一展を同館に訪ねた時のものです。

その時の梅野館長は、ブログ・とうみひとねっとさん(清水カヨ子さん)が詳しく書いています。ご参照をお勧めします。記事の固定URL. http://tomi.ctv-blog.jp/u/triangle/archives/0000002528.html

 

ほくほくとしたよい日和だった。

紅紫色に染まる矢の根草の花先から、一筋の光が糸を引いていた。冬支度の鍬(クワ)を入れた庭のいたる所、無数の銀糸が陽に揺れていた。しかし、見開いてみたり、細めてみたり….目を凝らすのだが、か細すぎてどこに焦点をあてていいのか、分からない。見つめるでなく、ただ瞳を中空に浮かせていると、やがてはじけるように見えてくる微かな光だ。

蜘蛛(くも)の遊糸か?

晩秋に巣立ちを迎えた蜘蛛の糸が風に舞い、タンポポの種のように子を運ぶと聞いたことがある…だとしたら…地蜘蛛の子だろうか。

蜘蛛の子が散る、か?

ちいさなちいさな巣立ちをこの目で見たいものだが、老眼乱視の肉眼では微々として見えなかった。が…..一瞬、ふわりと、ちいさなちいさな、とてもとてもちいさな命の粒が糸を引き、目の前を流れたような…..そんな気がした。


猫は座禅をする

我が家の雌猫ミータンは、いい面構えをしている。禅を教えたことはないけれど、常に丹田(たんでん)に気を溜めて充実して暮らしているような気がする。

今日、猫は、「正座で禅をしていた」と思いたい。いつもながらボクの軽トラのエンジン音を聞き分け飛び出してきて、猫なで声ですり寄りつつ、助手席に置いた安売りの冷凍秋刀魚二匹で100円パックを虎視眈々(猫目耽々)と狙っていたわけではない。

味をしめた買い物袋を狙うのも、猫の悟りかと思いつつ…..今日、猫は、屋根に沈む冬陽に向かい瞑想していたと思いたい。

餌にありつきたい一心で飼い主に敬意を表し、「きおつけ~ッ(気を付け)してみせたにゃぁ」などという話にはしない。

 

ともにうみだすみらい東御 第2回とうみダンスフェスタ

第2回とうみサンテラスダンスフェスタは、東御市文化会館を会場に来年2月19日行う。『ともにうみだすみらい東御』を合言葉にした参加型のステージ発表会。多彩なジャンルのダンス愛好者が地域をこえて一堂に集う。現在出演参加者を募集中だ。

第2回とうみサンテラス ダンスフェスタ

平成24年2月19日() 12時半開演

■場所・東御市文化会館サンテラス ホール(長野県東御市常田 505-1

■主催・東御市文化会館

■開催運営・ とうみサンテラスダンスフェスタ実行委員会

■出演団体募集・申込み、問い合わせ

①東御市文化会館・℡0268-62-3700

②ダンスフェスタ実行委員会事務局・℡携帯 080-5148-1515

■フェスタ ホームページ・http://tomi.ctv-blog.jp/u/dancefestival/

 ともに うみだす みらい

東御市議会議長 柳澤旨賢さん

(東御市福祉の森ふれあいフェスティバル会場にて10・22日)

ハンディを持つ人たちにやさしい街とは、全ての住民にやさしい地域を意味する。子供たちの参加を目の当たりにした。降り出した冷たい雨の中、びしょ濡れになりながらオープニングセレモニーでダンスを披露してくれたダンスフェスタ実行委員会のみなさん。東御に、こうした若い力が育っていることを心から頼もしく思います。

弊社㈱ジェイステージは、市民運営委員会(柏木春代委員長)に全面協力、開催を支援する。ともにうみだすみらいのもと、ストリートダンスはじめ幅広い愛好者にスポットをあてダンスが持つパワーや可能性を後押しします。

風わたる日 御牧原台地

写真記録 風わたる日    御牧原台地vol.1


11月16日、昨年より一月遅れで浅間山に初雪が降りた。遠く四方の山脈を地平にするこの地に居ると、移りゆく季節はことのほか鮮やかだ。遥か西、穂高や白馬の峰々を越えて上空を渡る風は季節を運ぶ。数日雨が続き、その雨雲を吹きとばすように茫々と風がわたった。四季折々、ふるさと、御牧原を記録する。

 御』 の字を冠した原野

御牧原は断崖上の高台である。川沿いに散在する周辺の村々から沢筋に山道を詰め登ると、標高ざっと7、800㍍、東西およそ6㌔㍍、南北に8㌔㍍、千曲川と鹿曲川に仕切られた天広がりの土地である。土は赤茶の強粘土。雨が降れば重い泥塊となり、乾けば硬く石同然のありさま。明治期以後の開墾で、今では大型トラクターが走りまわる農地となったけれど、かつては鍬(くわ)を入れるには難儀な原野だった。慢性的な旱魃(かんばつ)地帯。台地に降る雨は浅い浸食谷をつくり、これに沿ってか細い流れはあるものの常時水を満たす川はない。、無数のため池が点在している。 

今に残る野馬除け(放牧馬の柵)の遺構…….御牧原は、かつて朝廷直轄の駿馬の産地だった。およそ1300年前の823年(弘仁14年)、平安時代に書かれた「日本紀略」には「信濃国御馬が宮中の武徳殿に牽進」と記述がある。「望月の牧(官牧・勅旨牧)」として登場するのはの905年(延喜5年)と「延喜式」や「政事要略」に記載がある。御、牧原と、御の字を冠する地名の由来だ。野馬除けは、土地改良によって途切れ途切れだが、台地の西側では延長12㌔㍍にわたって柵は続いていると聞いた。

朝廷による中央統治(律令国家)が進む中で、官道の東山道には駅馬伝馬(うまやてんま)制がしかれるなど馬の需要は増していく。望月の牧には当時、牧夫や調馬工、馬医など技術者は、家族を含め2000人以上がいて、常時およそ800頭の馬の飼育していた。大陸の大草原を駆ける騎馬民族の末裔がこの地に帰化したと郷土史は言う。

台地の北、東御市北部区土堂地籍には、仏塔「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」を置いた土堂の遺構がある。モンゴル語らしき文字を刻んだ古石が、野馬除けの要所でもあった経塚がある。地元民謡「正調小室節」がモンゴル民謡の歌唱法オルティンドゥーの節回しや音程によく似ているとする説もある。さらに、古墳時代中・後期の須恵器土師器(すえき・はじき)を窯で焼成した遺構や、千曲川の砂鉄から鉄具を製造するなどの痕跡が佐久地方一帯から出土している。大陸伝来の文化がこの地に根付いていた証だ。

 室町時代に書かれた「公事根源(宮中の年中行事を記載・応永27年1420年頃)」には、「16日の駒牽(※駒牽・天 皇に献馬の儀式)のほかは廃され」とある。御牧原の望月の牧を残し、全国の勅旨牧が衰退していたことが分かる。その献馬もやがて廃され、牧監の滋野氏の私牧となっ てから、5、6百年にわたり続いた勅旨牧は幕を閉じた。

台地に暮らす人々は、台地を「古くて新しい土地」という。古代の歴史を見つめ「古」と言い、明治から戦後にかけて辛酸の開拓史、これを「新」と呼ぶ。ゆっくりと時間をかけて御牧原を歩こうと思う。

葉裏を返して西風が渡った。

続く

晩秋

花の道

花をいけるとしたら、ふるさとを活ける、東信濃の季節を活ける。型や式に拠らず、素通しのガラスの花瓶にその一枝を生ける。どんな時も忘れえぬ風土の彩りを挿す。

草紅葉の道を歩いた。紅葉、黄葉、褐葉、手にしてみれば、色葉の別、億々千万か。 谷を昇る山雲・・・極彩の葉色を天に還し、やがて冬枯れ。

お宮の境内のベンチはひらひらと降りかかる黄金色で埋まっていた。隣にお座りだったご老人に「みごとな銀杏ですね」 と声をかけると、  「私が幼かった時分にはやせてヒョロヒョロの若木でしたよ。…..そうね、私とおんなじ。八十近くになると銀杏も足腰が弱くなるみたいだけど、まだまだしっかと立って…..ほらほら、また、蝶々のように葉が舞い落ちて….」


 

 

 

 

 

 

 

冬支度の鋤(すき)を入れ終えた田んぼの小さな水溜りで、二匹のつながりトンボ。 おいおい、そんなたまり水では卵は冬は越せまい。凍みて、乾いて、また凍みて、フリーズドライになっちまう。一心不乱 

 

 

 

 

せき止めている。あぜ道、草の道、季節の道時の道……..やがて、還ってゆく。