月別アーカイブ: 2012年3月

小諸散歩

 小諸城址の南、馬場町…「昔、馬場なり(乗馬や競い馬をする所)、侍屋敷15軒、内1軒は家老屋敷」と古記録にあるその通りの裏露地にボクの家はあった。

通りには共同の水道場があって、そこからの水汲みが日課だった。天秤にブリキの一斗缶の柄を掛け、よろめきながら自宅の水がめやドラム缶風呂へ水を運んだ。戸(城下の警護所)があったという無縁橋を渡って松井川を越えると、そこには「殿様のお墓」がある。殿様の墓石は瓦葺の屋の内の立派なものだったからさすがによじ登らなかったけれど、手ごろな墓石のてっぺんにはことごとく立った。近所の子供等が皆して墓の頭に居並ぶ姿…墓場の東南の谷にあった斎場(火葬場)から立ち上る荼毘の煙を煙幕に見立て、煙の中からさっそうと登場する風呂敷マントのヒーローとなって駆け回ったものだ。

懐古園(小諸城址)や七軒町、馬場裏(侍屋敷)、千曲川へと逆落としで下る時雨坂から中棚(島崎藤村ゆかりの鉱泉)にかけ、一帯はボクらの縄張りだった。千曲川にかかる戻り橋を挟む村部の屈強な子供連をも寄せるものではなかったし、商家で鳴らした街部の連もまた寄せなかった。毎朝、新聞配達で駆けた道…..朝鮮戦争の特需を足がかりに神武(天照)景気、岩戸景気へと、高度成長がはじまる昭和30年代….古城区馬場町ガキ軍団の思い出だ。

それからこの街は、どう変わった…..1128年(大治三申年)に遡り「小諸郷」と地名を遺すこの地である。辻に置かれた碑の丸石ひとつにもふと歩みが止まる歴史の街だ。ゆっくりと時間をかけて生まれ故郷を歩いてみようと思う。

 島崎藤村が、小諸義塾の教師時代(明治32年(1899年)4月ー明治38年4月)に歩いた頃の小諸の風景がある。

町家の軒を並べた本町の通りを一瞥(いちべつ)して…田圃(たんぼ)脇の道に出た。 裏側から小諸町の一部をみると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれて居る。  中には高い三層の窓が城廓(じょうかく)のように曇り日に映じている。 その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾(のれん)と対照を成して、土地の気質や殷富(とみ)を表して居る。旧士族には奇人が多い。 時世が、彼等を奇人にして了った(しまった)。もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀、礎(いしずえ)ばかり残った桑畠などを見、離散した多くの家族の可傷しい(いたましい)歴史を聞き、振り返って本町、荒町の方に町人の繁昌(はんじょう)を望むなら、『時』の歩いた恐るべき足跡を思わずにはいられなかろう島崎藤村「千曲川のスケッチ」から抜粋=      

『時』の歩いた恐るべき足跡を思わずにはいられなかろう…..か。士が枯れ、商が栄えた時代。与良町通りにも古い商家が残っている。

心は未だロッキング ダンスフェスタ

 ダンスがブームである。

「地元の東御市文化会館でダンスの発表会はできないかしら」

一人のママさんがそう言った。市内のヒップホップダンス教室で幼い我が子とダンスを楽しむ若い婦人だった。若い地元のダンサーと一緒に、数人からはじめたママさんたちの教室は瞬く間に数十人が集まる大所帯に育ったと聞いた。

ボクは流行には甚だうといけれど、フラ(フラダンス)やフラメンコに熱中するご婦人の姿をよく見かけた。ご老人が通う公民館の健康教室でもあれは体操というよりは踊りであって、演歌にあわせて肩や背筋を伸ばしているのだった。

ママたちは言う。「子供たちの野球やサッカーなどスポーツ大会はあるけれど、ダンス大会はこの地にはない。イベント会場に招かれて踊るがせいぜいであるぐらいです。踊る機会が欲しくて出演するけれど、主催者にすれば客寄せのアトラクションの扱いだから、衣装の着替えする場所すらない。一度、是非、子供たちの姿を見て欲しい」と、誘われた。

 昔、駅前で踊る若者に話を聞いたことがある。「何故に君らはズボンを下げパンツ見せるようなだらしない風体で踊るのか?それも人通りの激しい駅前の歩道でだ」…..オヤジの高飛車な問いかけは無礼なものだったに違いない。「帽子というものはひさしを前にかぶるものだ。なぜフードで顔を隠した上に横向きにかぶるか?みっともない!浮かれてないで勉強しろ!それがお前たちの本分じゃないか」…ガチガチと凝り固まった感性だろうが、これが本音だった。高校生だというその若者は言った。「仲間と待ち合わせするには駅前がいい」。誰か他の仲間も来るかもしれない…と彼は言った。ロッキング、とかいう楽しいフリまで教えてもらった。気のいい爽やかな若子だった。ショーウィンドウのミラー越しに、行き過ぎる人波が流れた。

人が集うところダンスあり….楽しいからダンスなんだ….ダンスは人を招く…ダンスは力を持っている、ダンスはいい。地元東御市文化会館でダンスの祭典を開こうか。

誰にも覚えがある学芸発表会ではない、一流の芸術公演をいくつも披露してきた756席収容の檜舞台での本格公演…企画を詰めた自宅や学校や体育館や公民館や、あるいは街角の通りや広場で踊る巷のダンサーを、ジャンルを問わずに舞台にあげる。老いも若きも幼きも、無論ハンディのあるなしもなく、無制限に出演者を募る。(ちまた)のいわば名も無き趣味のダンサーを一個の個性的なるアーティストとして扱う…ボクらはこれを基本に据えた。

開館から20年を迎えた町の文化会館が主催する記念事業の枠から薄い予算を取り付け、市民公募によるボランティア実行委員会で自主運営する企画をあげた。「我が子のダンス発表交流の場が欲しい」と願う市内のダンス教室のメンバーが実行委員に名乗りをあげた。手弁当、ダンスにひたむきな情熱を傾ける子供たちとその母親だ。公営の大きな文化施設をリハーサルを含め数日間押さえ、照明、音響やらの舞台設備をフルに使う。文化会館運営が指定管理制度導入に伴い民間の手に運営の一部が移ったことで可能となった文字通り市民主導…行政の言葉でこれをくくれば、「市民主導の行政との協働によるダンスフェスタ」ということだ。

フェスタ運営の成否は、この実行委員会の肩にかかっていた。素人の公募市民の情熱で、これが可能となるなら、これほど新鮮で痛快なことはないと思った。運営事務局を行政庁内に設け職員がこまごまと準備をすすめるしかなかったこれまでの行政主導による市民参加ではない。行政は指定管理制度を通じてこれを見守りサポートするだけ。舞台の主役も市民なら、企画から運営一切も市民の手による。これは自ずと「自主自律」の責任をダンサー個々にも問うものだった。 

総合プロデューサーを引き受ける際、私は実行委員に念を押した。「フェスタを皆さんは本当にしたいのですね」と、本気の度合をボクは計りたかった。出演者公募、折衝、スケジュール調整、スポンサー募集、広報、公演会場運営、ほか山とある準備の雑務を一手に引き受け、忙しさに本番当日の我が子の舞台さえ見れないかもしれない。硬固で柔軟な組織が必要だった。

主催者となった東御市文化会館は、出演者の企画演出要望を全面的に受ける姿勢で、「舞台技術体験型」を採り、舞台を開放した。市文化会館主催事業としての補助金のみでフェスタ事業がまかなえるはずもなく、多くの事業者や企業の皆様から大きな協賛を得ながらの開催となった。

▽第1回ダンスフェスタ  平成22年11月21日 (収容756席) 出演者総数250人、入場者数650人 ▽第2回ダンスフェスタ 平成24年2月19日 出演者総数約400人、入場者数1000人

多くの方々の大きな協力のもと、ともにうみだすみらい、とうみダンスフェスタは、まずは成功したと思う一方、会場を埋めるたくさんの観客を眺めつつもなお、これで終わりとはボクらは考えない。裏方として、安全第一に無事終えたことへの安堵感があるだけだった。イベントは予想の付かないことが多々起きるのが常….運営上のミスも表面化し、完璧だったなどとは言えるわけもない。ダンスフェスタの継続に緻密な企画の精査が必要だろう。 

公演を前に忙しく刷った会場向けのプログラムの校正ミスから、主催者を東御市文化会館とするべき所を文化会館の文字が抜けて東御市となった。訂正をかけはしたものの、来賓席の市長から直接、強く注意受けた。東御市主催と東御市文化会館主催の違いは、実行委員会のキッズやママさんにとって別にどうでもよい話だ。ともにうみだすみらい東御のフレーズの下、わがふるさとへの思いがあるだけだった。しかし、東御市主催となると市長は来賓席の人ではなくなる。事業自体の本質が変わる。あってはならないミスだった。主催者の文化会館には運営責任者であるボクの辞任の意を添えて謝罪した。翌日には文化会館の館長が経緯を説明し「間違いは間違い」として市長室に出向いて謝罪した。当然とるべき公施設の厳格さだ。ボクらは表には出ない黒子である。しかしダンスフェスタ開催の責任者であることは、市長自らが会場で公にしてくれた。責任をとるべきはボクだった。

実行委員会の皆様の中にも「実行委員会はほんとうに必要?」と運営のあり方に疑問を投げる声もあると聞いた。

時流に乗ったというわけではないが、ダンスフェスタの運営総括を務めた。踊りといえば、幼い頃の盆踊りと、高校時代のフォークダンス、インドシナのキャバレーでガラス越しに招く綺麗な金魚姫と一緒に揺れた記憶….いづれにせよ、人前で自慢できるダンスはない。

今回の第2回開催を機にボクは総括責任の任を降りる。別のステージで我流のステップを踏もうと思う。心は未だロッキング……ダンスフェスタ実行委員会の皆様、お後はよろしいか?

ノンノンorノンフィクション

ノンノンorノンフィクションとは、「この世はフィクションであって、ノンフィクションと思えるものも実は絶対ではないのだよ」 というボクの思い。記事カテゴリーに加えました。

ボクはジャーナリストではありません。ジャーナリストじゃ食えないので、ハローワークへもよく行きます。が、還暦近いのでどこも雇ってくれません。先日偶々どういうものか地域優良企業と名高い会社へ紹介され警備室勤務を拝命しましたが、社長さんに馴れ馴れしすぎたせいかなにかでケシカランとかでたった一週間余りで首。「ここの社長は天性のアホだなぁ」などと言い出しかねないオーラを発しているのかもしれません。じゃあ、またね」と片手をかざす挨拶はよくしますから 「ジャアナの爺さん」 と思ってください。

さて…..記事掲載するや否や「名誉毀損だ」などと、わが身(ダケ)可愛さの族に騒がれるのは面倒です。お偉いさんには何かとその手が多い事もあり….つまり「自分が分かっていないことが全く分からない輩」を相手にするほど煩わしいことはありません。だから、「ノン・ノンフィクション」でもあるのです 。机上の論法でもあるまいに、理路整然と問題の根本的な解決策などというものは、ありそうで実はないのが世の常であって….あれもこれも百花繚乱の論あってこそ良し。互いに好きなこと事をこきまくって、肩を抱きあい笑い合い、仲良しこよししている のが 健全 というものです。

ノン、ノンフィクション…これを「作り話かもね」と訳し、軽く受け止めてもらうのがよいのかもしれません。どうぞ健全なるお心で、併せて「ノンフィクションではない、こともないかもね」といった上等の感性をお持ちいただきまして、お楽しみいただきますように。

何を言ってるのか分からなくなりつつありますが….カテゴリー「ノンノンフィクション」の説明でした。