今日からボクは一人ささやかにキャンペーンを張ろうと思う。名付けて「こっちの水はうまいぞキャンペーン」。都会暮らしの信州東御の息子や娘たちに向かい、「ソッチの水では腹もくだそう、まずかろう。帰っておいで」と呼びかけたい。故郷を離れた誰しもが思う郷愁の、その一瞬のノスタルジーに付け込み、若衆を引き戻そうと思う。
帰ろかなぁと思った時が都会暮らしの潮時だ、後先なんぞ考えたのでは元も子もない。故郷に錦などいらぬから、娘も息子も連れ合いもみんなひっくるめて己がシアワセのため、「荷物まとめ戻ってこいよ」と伝えたい。
高度成長期を遠の昔とする今でさえ一極膨張を続ける 大都会。進学や就職で都会へ出て行く傾向は今も昔も変わらない。
思えば新幹線誘致時の地元の謳い文句は、都会向けの誘引だった。「新幹線で首都圏を結べば通勤圏内になる」とは結局、都会のリタイア組や週末犬連れ散歩組を呼び込むばかりだった。別荘の固定資産税収入を地元住民に還元できる極寒多湿の国際的避暑地ならまだしも、先々何かと厄介な年金族を招くばかりの能では「お話にならん」とボク思う…..イッチマッタ。「道が開いたら行ったきり、可愛い我が子は行ったきり。この先お墓は誰が守る」とすがる想いの親心。我が家のほぼ真下の地下を行き交う新幹線は井戸水も枯らしただけのシロモノで、子らの帰省はいつも安運賃の高速バスだった。
そもそも暮らしというものは基本的に、どこであろうがそう変わりない。大凶作で餓死する危惧が田舎にあるならいざ知らず、今時どこでもコンビニはある。東京だろうが東御だろうが似たような暮らし向きだろう。ならば一層尚のこと….暮らしの苦労は故郷でと腕を広げて迎えたい。一区切りつけて還っておいで…..その先はどうにでもなる、ケセラセラ……
都会暮らし十数年余の末に帰省帰着したボクの話をしましょうか。かれこれ四十余年前、ボクは首都圏に居て、学生時代はもっぱら土木工事のアルバイトで暮らしていた。現場の事務所兼労務宿舎を下宿先として、現場が変わるごとに転居しながら都内へ通学した。学費も何もかも土方仕事でまかなう見上げた根性の苦学生….という線は崩さないけれど、「個室、飯付き、風呂付、タダ酒ふんだん…私に比べると随分恵まれた馬鹿ボンボンだったのネ」(おかぁちゃん談)と言えるかも。
現場と飯場と学校を行ったり来たり。飯場暮らしの学生だから自ずと友人は現場の人、九州や沖縄や東北からの出稼ぎ衆だった。宿舎の食堂にいるとお国訛りのルツボであって、当初は何を話しているか分からなかった。「こっち来い、一杯どうだ」 とその辺は感で分かるとして酒が回るとサッパリ….
「ヌシャ、ドぎゃんもコぎゃんも、ぎゃぁギャぁギャァ」と言われたところでチンぷんカンプン。若輩者可愛さの杯に甘え「んダンダ、ナンモカンモそん通りタイ」などと東西ごちゃまぜで相槌打っていたこともあって自前の言葉さえ怪しくなった。東京近郊の地元の者にしても同じくイントネーションが妙なうえ、語尾に必ず「そぅジャンいいジャン」とジャンが付く。競輪好きの洒落を借りるなら「ジャンが鳴る (最終周回時に鳴る鐘)」だ。東京人たる人の多くは頼もしく穏やかであるとは承知するものの、それにしたってお前、お前の連発はない。生意気な連中としか覚えていない。沖縄人は皆やさしくて憎めない標準語の使い手だが仲間内に入ると外国語同然…..一つ国ながらお国言葉は多彩。ボクの都会暮らしは、訛りの渦というよりは、人種の坩堝(ルツボ)といえるのかも知れない。カルチャーショックを感じたものだ。
この国は一塊に見えるけれど、多様な土地に土着する者の集合体だ。生まれ土地が育んだ気質というものは生涯変わらず、国によって信州人と人(ジン)が付く所以だろう。都会に人が集うのは当然、銭金勘定、通語は円弗仕立てと….イッテヨイモノカ?
この信州東御にもある土着の気質….それがどれほどのものかは置くけれど、故郷とは根っこ、忘れようたってできるものですか。水が違えば人も変わっていくのかな?故郷の水は美味しいぞ。
都会暮らしの若い衆に伝わる確率?…….
今のところ、人口にして一億二千七百三十万人分の三人か四人、分母を減らしてネット人口九千六百十万人分の四人…..およそ,0・0000041㌫….あちゃッ、ホームセンターの駐車場で買ったロト6(1等確率、0・0000166㌫)より低いかな。
しかし、このサイテ~(最低)にひるんではいません….
バタフライ効果、小さな蝶の羽ばたきは、やがてはるか遠い地の未来の気象までも変える…..なんてね
自分でコメント、今のところ一人芝居みたい。