夢でみた風景がある。心というようなものの深層から立ち上がり脳裏に浮かぶ。意識の境界線上に浮遊しつつも、目覚めて尚、精密な輪郭を保ち焼き付いている。それは夢であって現実のモノではないのだけれど、空想と現実(嘘実)いずれにせよ、僕はこの情景を確かに認識しているという事…..
暮れゆく池の端に佇ずむ(たたずむ)と空を映して水面。ジッと目を凝らすと、空を映す水面が空と見え…これもまた幻、か。
2016年6月30日 晴曇 蒸 「菖蒲花」この屋に人はいない。里から時々持ち主が上がって来て、取り付きの細い農道や屋敷畑の草刈りをしていく。季節ごと手を入れなければとうに朽ちて藪の中だろう。アヤメ、タチアオイ、ドウダンツツジの生垣、ウド、タラの木畑….背丈に仕立てた葡萄棚の脇、杖さす小柄な御老人を見た気がした。 暦は夏至(次候)、菖蒲華(アヤメ花咲く) 蜩始鳴 (蝉鳴き始める) 有明月(26・0) memo ズッキーニ畑マルチ張
2016年6月29日 曇雨 「ウシガエル」でかい土産をぶら下げて夜中にママが帰って来ました。両の手のひらに乗るサイズ、子猫と同じ大きさのウシガエルでございます。「遅くなってゴメンネ、さぁさぁ、飛び切り新鮮なお刺身よ」…..と勧められてもねぇ。 下手に皮でも喰うと毒にあたって下痢おこすですよ!ぐにょッと掴んで田んぼへ逃がしましたトサ。 memo 畑 花豆マルチ張り2本
2016年6月28日 曇雨 「梅豊作」梅子黄(梅の実黄ばむ)….芒種(末候)6月16日~6月21日頃というから、我家の梅は若干遅い。冬に枝を払ったせいでひとまわり大きな実をつけた。去年は二瓶、塩漬けにした。塩気が強くて酢っぱくて、震えが来た。体内の毒気ともども水分までも吸い上げるかと思う強烈さで「これは凶器だ」と不評をかった。ほの甘い上等なカリカリ梅にと焼酎を用意したけれど、漬けるまもなく舐めては消えた….さて、今年はなんとしよう。 memo 畑仕立 ズッキーニ・マルチ張り
2016年6月27日 晴薄曇雨 「自然流(じねん流)」生まれながらにして武の達人と見ゆ、防御と攻撃を兼ねる背水の構えか….足元で喧嘩すなッ。 memo 週五日制導入、本日は休業
2016年6月26日 曇晴 「七十二候」 一年を四季に分け、春夏秋冬。半月毎の二十四節気に分け、立春雨水啓蟄春分清明穀雨立夏小満芒種夏至小暑大暑立秋処暑白露秋分寒露霜降立冬小雪大雪冬至小寒大寒立冬霜降寒露と。更に五日おきに分けて、七十二候。太陽や月、空や雲、木々や草花、獣や虫に寄り添って….暦は、モノ皆、命の流れの中にある事を教えてくれる。 七十二候にならい五日周期で暮らしてみましょうかねぇ。 memo 畑仕立て ユーカリ100本 畝間130㌢・苗間1㍍・マルチ95㌢200㍍・基肥ユウキオール20㌔
2016年6月20日 晴 「小麦」 麦秋至(むぎのときいたる)の候、とは五月末頃…..「うちの近所じゃ今が麦秋」と言ったなら叱られるかな。 この畑の麦は「しゅんよう」、昨年までは「シラネコムギ」。何れも長野県農業試験場が産んだ品種。農業試験所が開発の信州麦は他にもたんとあって、パン向き「ハナマンテン」や「ゆめかおり」。コムギ縞萎縮病に負けないうどん向き「ゆめきらり」….種をもらって撒いてみましょっと。
2016年6月19日 雨 「ほうきに乗った猫」何故に、君は、好き好んで、竹箒(たけほうき)に乗るか、わからない……..飛びたいか.。
2016年6月18日 晴れ 「もうチョイで満月」6月17日午後8時39分頃、ISS が我家の上空を通過する….と我家のニュース。横文字を使うと、ISS (国際宇宙ステーションInternational Space Station)とIS(イスラム過激派組織イスラム国i slamic State)の区別さえできない僕。ただ、なんとなく大ごとのような気がしてくるから不思議です…..首が痛くなるまで空を見張ったけれど曇っていて確認できなんだ。 身内が探った文字通り我家的な界隈のニュースであって、NHKや信濃毎日新聞に上がる事はない。うちも横文字表記にしてInternationalをくっつけIWN(国際的我屋ニュース) と致しましょッと。 IWN発 6月18日午後6時半頃、もうチョイで満月の月が東の空に浮かびました 。(月上升了到东的天空 The moon rose in the eastern sky) memo 畑整地モロコシ畝立
2016年6月17日 晴れ 「夏至が近い」季節暦に寄り添っていけたら嬉しいと思う。季節の道理も知らずに「私は農人です」と自称するわけにもいかないから、暦を学ぼうと思う。茄子や胡瓜と一緒の時をすごし….世間様の慌しさを思えばなんという贅沢…ありがたきかな。 memo 畑整地とモロコシの畝立て
齢八十近い老夫婦に御飯の話を訊ねたら八重原米(長野県東御市八重原産コシヒカリ)をこぅ絶賛した。 「炊飯器の蓋を開ける。極上の香とともに湯気が吹き上がる。米の一粒一粒が立ち上がっている。ふっくらと、まるで両の手を合わせるような粒の形です。艶やかに純白の光沢をまとい、それが青味さえ帯びている。甘、粘、文句なし。御飯だけでいける。冷めて握り飯でもよろし……御飯を炊く事、箸を運ぶ事、しみじみとこれをありがたいと思う、幸わせと思う歳になりましたよ」。
美味しいお米を毎日食べたいけれど、これを八重原台地を外れて作るとなると、土、水、陽、諸々風土が違う。まして、稲の理さえ知らないド素人の僕が挑んでどこまで近づけるか…まずは一歩、農人の真摯な情熱に習う事から始めようと思っている。 =美味しいお米が食べたいな編vol.1 2016/5/29
5月25日(水)晴 「ハナサカジジイ」むかし昔、爺さんと婆さんがいました。爺さんは迷い犬のポチや捨て猫のタマを飼っていました。しかし、ポチは「ここ掘れワンワン」とお宝のありかは教えません。タマはよく穴を掘りますが、ウンチとオシッコの穴でした。 婆さんは若い頃、花の東京で暮らしてました、ある時、花屋で一輪1000円もするゴージャスな大輪を見たそうです。婆さんの“高値の花”のお宝噺に乗った爺さんは、さっそく花畑に出て草むしりに汗するようになりました。....以来十年。枯れ野に花を咲かせましょ、と思いつつも相変わらず貧乏な爺さんです。 =写真=養生の為、摘花した芍薬の花。
5月22日(日)晴 「ミツバチ」 memo 耕耘機メンテ花が咲きました。ミツバチが毎日やって来ます。これはニホンミツバチと思います。スズメ蜂の大きな巣を軒にぶら下げる我が屋…..できるものなら今度はミツバチを飼育したい。ではどうするか?信州人らしく、一匹つかまえ尻に真綿を貼り付けて解き放ち、王国の在処をメッケ(発見)となれば煙幕張って巣ごと持ちかえり…てな事を考えている。
5月21日(土)晴 「地軸、天軸」 memo 芍薬畑 耕耘機白煙たて力尽、静養。御天道さんに付いていけない。一応日の出には起きるが朝露が降りて肌寒いのよいことに再び寝床。それでも、毎日畑で夕陽を拝む日が数日も続くと結構疲れは溜まる。
悠々自適を例えて「晴耕雨読」…..オソラク、机上に年がら年中寝床を置いて寝るが仕事の輩の台詞ではあるまいかとふと思え….ならば今日のオイラは「雨フッテクレネぇかなぁ~、ぬしと朝寝がしてみたい」と呟いてみたりして。
日の出4時半過ぎ、日の入18時50分頃。月の出19時頃、月の入5時頃。ほぼ満月…..天は南に軸を傾けて僕の頭上を巡っている今日この頃…..ついでに一句、「淡い夕茜の紅さして誰にホの字かお月さん」
5月15日(晴) 「聖地」 memo田植
たぶん、茜に染まる甘く濃厚な空のせいなのだろう、あるいは湿気を帯びる空気のせいなのだろう…日没から日没後の薄明の時間帯が、無信心な心をも導く不思議だ。
遠く見える日本ヒマラヤの彼方へ沈む陽を眺めつ….聖地の今は夏モンスーン(雨季)か、気候は風土は水の味は眺めはとアレコレ夢想した。仏陀をなぞり悟るほど道に憑かれる者ではないにせよ、「求道とはおそらく黙して語らぬままにヒタヒタと行く道」と思う。教えて分るものでない真髄を誰が語ると言うのかや...
白い服と帽子が、夕焼け色に染まっていた。三つ子の魂百歳までというけれど….。
5月5日木(晴) 「飛行機雲」雨ニモ負ケル、風ニモ負ケル、雪ニモ夏の暑サニモ負ケル、野原ノ窪地ノオンボロ屋ニヰテ 、イツモシヅカニワラッテヰラレナイ、日ノ出4時49分日ノ入8時39分(5月5日)、オテント様ト13時間50分モ付キ合ヒ、ノロノロト田畑ヲ耕シ、東西南北ノ空ヲ眺メ、ホメラレモセズ、サウイフモノニナッチマッタ….
暮れかかる頃、大空を区切るように飛行機雲…..上空1万㍍の風は偏西風だろうか、一筋の白雲が溶けるように崩れながら頭上を渡った。
5 月4日(曇晴 午後風強) 「稚苗」 memo 庭畑へアレコレ野菜苗定植毎年思う。他所様の苗場を眺めつつ,自前の苗を仕立てようと思う。 去年の今頃も、確か、そぅ思った。今年もまた、そぅ思っている……つまり、やってはいない。ただ「今度こそ」と、また来年に向け気張っただけ……嗚呼。
5月3日(曇 肌寒) 「マルバアオダモ」初々しい甘い香りがした。甘いがちょいと青臭い。オーデコロンにして還暦過ぎの男(僕)に振りかけたなら、「あらまッ」と瞳を輝かせ振り返る御婦人がいるかもしんね….と思うのだった。 新緑の、青春の、エッセンスを見つけた気がして一枝手折って、山から持ち帰った。
5月2日(薄曇晴)「正座」 memo 庭畑トウモロコシ種撒き「両手両足をこうして揃え、静かに腰をおろしましょう。猫背は仕方ないけれど、爪は引っ込め、指先はそっと尻尾で隠しましょう。これがたしなみ、お作法と心得ます……オホホ」 先日、他所様のお宅に忍び込み、大きな豚肉の燻製(ベーコン)を丸ごとくすねてきた無頼のくせに….オホホはないものだ。 ミイちゃんの正座に隙はない。
5月1日(晴曇) 「今日の空」 memo 農園整地見晴らしの丘に立ち、遠く地平の山波に落ちかかる夕陽や天を飽きることなく眺め見ている…..こうしていると、稀に、ほんの束の間にせよ、丘の神様に抱かれたみたいに穏やかな心持ちになる。至福の時と言っていい。至福とは苦もなく楽ばかりの極楽を指しているのではない。大当たりの宝くじ同様の至福を、実は大いに期待するけれど、これと違う。 心に無機質な水滴のようなものが数多湧き溢れてくる…..無色透明….この透明を(今日の所は) 至福と…….なにはともあれシアワセだなぁと感じている。
2016年3月25日 「グミの木」「蟻ん子みたいに小さくなって、この樹上で暮らそうか….」などと見上げていたら、この屋の主が顔を出した。「この木の樹齢ですか?はて…私が物心付く頃には庭にありました」とか。74歳の主が幼い頃にはもう枝を張っていたというから、恐らく百年…..この地に入植した先々代が植えたものらしい。 庭では幼児がサッカーボールを蹴っていた….孫で五代目。根を張り、枝を張り、血脈を継いで今日のグミの木。
2016年3月21日 「フクロウ唱話」庭先で薪を切っていると、他からもチェンソーのエンジン音が聞こえてくる事がある。陽が中天にかかる頃ようやく腰をあげる暢気な僕と時を同じくして、どこからともなく木霊する。 ホロツクホゥと鳴き交わす谷間のフクロウではないけれど、何気に稀なる同類と巡り合った気にもなる。近頃では暴走小僧よろしくチェンソーを歌わせて後、仕事に掛かる事にしている。
チェンソーの爆音には心騒がせる波動がある。例えば….その波動が炬燵で居眠る土地の老人の耳に届いたとする。たいてい山仕事で慣らした男である。午睡のまどろみを邪魔する騒音が耳について離れない。「山仕事とは白い息をも凍りつく夜明け前に起き出すものだ。昼日中に仕事にかかるとは、タワケた者よ」と呻く。そして、そのエンジン音の長短強弱で仕事ぶりを推し計り「このド素人めが….」と呟く。男は業を煮やしつつ、しだいに高ぶる。やおら起き出し納屋へと向かう。そこには長年ほっぽらかしたチェンソーがゴロゴロ置いてある。不思議と心に漲るものがある。いつもなら大相撲中継が始まるまで眠っているというのに、もぅ止まらない。頬被りの手拭いをキリと締めて一心不乱に刃を研ぐ。そしてとエンジンに火を点す。しじまつんざく爆音、フツフツと騒ぐ血潮を鎮めんがため老は立つ。恐らく、アッチの家でもコッチの家でもエイエイオゥッ!と老は立つ。果樹や庭木の剪定、あるいは立ち枯れの赤松の伐採等と冬場仕事は事欠かず、陽が暮れかかろうとお構いなし…かくして、里に爆音は木霊する。
駄法螺噺と哂わば哂え。こぅ考えねば、僕の真昼のフクロウの共感は説明がつかない。.ホぅ、ホぅ、なるほどホロツクホ~と、頷いて欲しいもんですなぁ。
2016年3月15日 「雪梅」ブタクサやアレチウリの枯れ茎を掻き分けつ、窪地の藪中にその梅はあった。長いこと放棄された梅林らしく密生の奥は藤蔓に覆われていた。荒畑に咲いた花だった。
古来より梅花を詠んだ詩は多々…かつて通った学校の講堂に「耐雪梅花麗 (雪に耐え梅花麗し)」と大書きの板(篆刻)があった。梅花教育を理念と掲げた故郷の学び舎だった。「一貫唯唯諾 従来鉄石肝 貧居生傑士 勲業顕多難 耐雪梅花麗 経霜楓葉丹 如能識天意 豈敢自謀安」。後に南州(西郷隆盛)の漢詩の一節と知った。
菅原道真は11歳にして月夜の梅花をキラ星と詠んだ。「月燿如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉房馨」。僕にも道真と同じ頃、キラ星と詠んだ詩がある。お育ちの違いはあろうけれど、負けてはいない。 蜘蛛の巣に降りかけた立ち小便の珠房をキラキラ星みたいだと書いて、先生にいたく褒められた。
禅語に「梅花和雪香 (梅花雪に和して香し)」…「是一番寒徹骨 爭得梅花破雪香 (錦江禪燈)」。もののネットにそぅ書いてあった。
ともあれ、実を成す花は絢爛(けんらん)と遠い。木訥(ぼくとつ)として淡々….藪の中、人知れず雪と和し陽と和し月と和し風と和すか梅花、真似できるはずもない花の孤高を想った…..と大仰に〆ようか。それとも、実のなる頃、密かにザル持ってまた来よう…..と書こうか。迷ってます。
2016年3月14日 「春雪」降っては消え、また降っては消えの春の雪。雫となって葦の穂先にとまっていた。
フワフワと降りかかり….見る間に雫となり….これが吹かれて氷となり…..揺れながらうつろうこの時節の心模様を「絶妙」と称えてよいものか。 名残の雪は重い。
3月7日晴 「煙突」風で薪ストーブの煙突が折れた。どうせ直すなら長いにこした事はないと煙管を継ぎ足すことにした。「煙突職人顔負けだな」と呟きつつ片手間に作業を終えるつもりだった。ところが、屋根へ担ぎ上げる段になって風が吹き出した。地上で仕立てた煙突を突き上げたまま梯子の途中、風に煽られ身動きならなくなった。身体を支えるのがやっとだった。
軒先に掛けた梯子をほんの少し登っただけというに、高さに怯えて脳内テンヤワンヤ。「きっと転がり落ちて、頭を打って、悶絶して、助けも呼べずにただ一人、ブリキの煙突を抱きしめたまま孤独死か…」と、ロクデモナイ事が頭をよぎる。かと思えば、「鳶職人は梯子が倒れかかっても決して手を離さない。梯子が傾き地上に倒れる寸前を見切って着地するのだ。梯子と一心同体にならんと駄目だ」などと、役にもたたぬ事が浮かんだ。
奮い立ち、再三態勢を立て直そうとしたけれど腰に力が入らなかった。.結局、.もちこたえられず煙突を放り出した。張線用の針金が身体にからみついた。その先端、バラバラになった煙管が何本もぶら下がり、風にカラカラと鳴っていた。
我家の煙突がひょろひょろなのは、凍てつく強風をものともせず頑張った苦闘の証だ。長い煙突は排煙効果が良いと教わったので、その通りに高くしたら確かによく燃える。通気が良すぎて瞬く間に火力は上がり、ストーブは真っ赤だ。家が発火するんじゃないかと思うほどだ。心配のあまり、夜中に起き出し水をジャブジャブ部屋中に撒く羽目になった。お陰で寝不足….暖冬とはいえ、かれこれもぅ五ヵ月もストーブのお守をしているのですわいナ。
2016年02月22日 「おぼろ月夜」庭の杏の枝をはらった。十㍍にも伸びた枝先に手は届かず初夏には葉虫が付いた。薬散布が届かぬ枝先は虫に喰われ、白い糸巣がフワフワと泳いだ。殺虫剤や消毒もだが剪定しないと実をつけないとも教えられた。樹齢おそらく…..還暦を越える大木だ。 八年前、この杏の樹に惹かれて僕はこの家に移り住んだ。朽ち始めた古屋の難を解することなく、まるで生まれ屋に戻ったような懐かしさに憑かれ、終の棲家にしようと決めた。ほのかに紅がさす花色が満開の頃だった。春浅く、受粉の虫も見かけない寒空に花を結び、やがて一面の葉緑に染まる頃、ふと思い出したように熟れた実を地に落とした。…残した枝先に朧の月(おぼろづき)が昇った。花の春は近い。
2016年02月20日 「ボンノクボ考」うちの猫の髪形はフォーマルだ。…男の髪は耳に掛かってはいけない。前髪は額の広さや後退具合に関係なく左右七三に分ける。後髪はうなじを高めに刈り上げ、盆の窪(ボンノクボ)を見せる。そうやって野太い首を背後の者に晒し、「この首取れるものならる取ってみろ」と泰然の意気を示すがよろし。しかし、張り切り過ぎて究極の坊ちゃん刈りにしてはいけない。「ミサイルぶっ放すゾ」と脅す男に似たらフォーマルどころではなくなる。
2016年02月19日 「おてんとさん、イラッシャイ」
部屋に置いた丸椅子にお天道さんが座っていた。窓辺に立て掛けた姿見に反射して、部屋の東から西へとゆっくりとお渡りになる。自室に天の道筋があるようなものだな、.などと。….もそっとユルリと寛いでいって欲しいものだが、大人の尻が半分かかるぐらいの小さな椅子だから、ジンワリと尻をずらし席をお外しになる。時折振り返っては椅子をあてがい直してみたりしている。
目の前を時が行き過ぎていく。時々刻々というが、陽の秒針は刻まない。静かに滲み入るように移っていく。…..随分と日が長くなった。夕刻午後4時半頃には早々と落ちた陽も今は一時間ほど遅い。冬至から年をまたいでもぅ二ヵ月、季節は雨水。
2018年02月15日(月)曇後晴 「椋鳥唱和」冬空に掛かる電線に並ぶこの群をどう見ましょうか、椋鳥の群れ。晩秋にリンゴ畑を荒しやがった族に違いなくも、本日は石も投げずに眺めおり。 ワンサカ舞い来て整列。隣とは席ひとつ分空けるのが並びの流儀と見た…人も似たようなものですな。羽毛を膨らまし丸く身を縮める様、どこと無し愛らしく、七線譜上に拍子符を刻んでおるわいな、と…..しかし、遠目に整然と見え、実はてんでに好きな方を向き、しかも私語慎まず、賑やかこの上なし。統制統率、整列好きの人ならば治まりつかず…..とて、渇を入れれば一瞬に舞い散るのみ….良きかな、よきかな。冷え冷えと闇迫り来て、宿探しに血眼と見受けつつも、束の間の休息の一コマ、仲睦ましく….隣同士は夫婦?兄弟姉妹、親子、恋人、あるいは一群一家一族みな親戚と….想いは尽きず、嬉しや。
群とは命を賭した種の習い、.越冬には群れるに限る、独り野にさすらうは死ぬる覚悟、これ必定。何かと群れたがるその訳は、椋鳥も獣も魚もコレマタ人も命繋がりの、きっとそぉゆう辺りなんでしょうな。
2018年2月13日(土) 「ケンケン踊りを舞うのことよ」日中はストーブが要らなかった…凍てつく寒さが急にこのところ緩み、例年なら雪となる雲が雨を落としそうな空模様だ。 この時期にしては異常かな、異例かな、それとも異質かな、と異の字をまさぐりつ、 これもまた遥か遠くのペルー沖の海がぬくいせいかな、などと….赤道域の海水温の上がり下がりが貿易風を強くしたり弱くしたり。それが僕の頭上のお空まで熱くしたり寒くしたりするとかや(エルニーニョ、ラニーニャ現象)。脳内に珠の地球を浮かべつつ、脳味噌タライにぬるま湯を張って大海原の流れのメカニズムをものにせんと悩んだしだいです。
今日はフキノトウを探し丘の畑を歩いている。夏に喰ったら美味そうな湿りの雪はザクザクと、赤土の凍土も緩んで強粘土質の泥が足を重くする。靴底を上げるほどに張り付く泥を飛ばそうと足を振った拍子に長靴が脱げた。雪が空の雲に溶けて浮遊しそうな天地の狭間で独り、片足あげたまましばし…..ケンケン踊りを舞うの事よ。
2018年2月7日(日) 「山の神様お願いだ」 東御市和(かのう)田沢区(田中栄次区長238戸・655人)の御柱祭へ出かけた。美都穂神社へ奉納の御神木の山出しで、集落の北にある浅間連山烏帽子山系の国有林から赤松の大木(幹周り約2㍍)を長さ五丈五尺(約17㍍)にして切り出した。仮の安置所・御仮屋まで約3㌔㍍の山坂道を、氏子住民ら約200人が太綱で曳き下った。 7年に一度、山の神を里へと下ろし祀る…諸説はあれど地元衆の心の御柱(みはしら)には違いあるまい。起源を遡れば1830年・文政13年寅年4月3日の棟札が現存し、神社の起源由緒からすると更に営々、幾数百年も続いてきた例祭とも。
御幣を掲げつ意気高らか…「山の神様お願いだ」木遣り歌が天まで届けと雪の山々に響く。日本海と太平洋に天水を分かつ中央分水嶺の山麓、命水を育む山里ならではの祭と僕は思う。 今年の里引きは市長選挙がらみで4月3日に移行開催。
シミズさんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
「信州上田の武石村の御柱の切り出しは、高齢率のこともあり道々引き手が酔いよいになってしまって、ご神木が前に進まず日ぐれが迫るのだそうです。 引き手に若い衆が重宝され、この春めでたく婿入りが一件決まったとか。まずは、めでたい。」 シミズ
2016年2月05日 「年輪」楢の樹を伐った。膝を折り突っ伏して切り粉を吹きつつ年輪を数えれば、還暦の僕とほぼ同い歳….。 過ぎし日々、一輪また一輪と歳を重ね、還暦の深層より浮く幻影の数多…ただ有象無象、泡の如し。….黙ってこの先を行くことにする.。
2015年12月12日(土) 「穂波」秋雨の降りしきる中、荒風の記憶を穂先に止めたままに倒伏の稲田が広がっている。 一月前の夏台風の夜、狂ったように青稲を湧き躍らせた風は今、ソヨとも動かず、まるで化石のように時を止めたまま風紋となった。
風に身を伏せた倒稲(とうとう)を前に来年の稲作を思案しようか、それとも、この風を時流に例え、FTAAP (アジア太平洋自由貿易圏)やTPP(環太平洋経済連携協定)について書こうか…。
娑婆世界など今はどうでもいい。僕は、ただ、風を見ている。枯れ急ぐ穂先にピタリと止まったまま動く事ない風を眺め見ている。あの夜の野蛮で野放図と思えた荒風の奔走(ほんそう)は、奔放(ほんぽう)を意味しない。風には道がある、風の理がある。
「立木」 2015年12月11日(金)雨曇り我家は煙が絶える事がない。築半世紀以上の古家を購入したものの、風呂も暖房も薪なしでは過ごせない。冬ともなれば隙間風防ぎようも無く、連日連夜、それこそ之を仕事に懸命に薪ストーブを焚き続けている。 毎日、ストーブの灰をかき出しては畑に撒き、チェンソーを唸らせては薪を作る。露地のいたる所、切り粉と灰で斑模様だ。
水田の際にあるこの立木の伐採を頼まれている。人の胴回りほどの太さに育った楢(ナラ)の大木だ。 「強風で倒れでもしたら土手ごと稲田を台無しにしかねない。葉が茂ると稲に影を落とす。この田だけ育ちに斑ができる。伐って薪にでもしてくれれば助かる」と、隣屋の主人からの依頼だった。
主は言う。 「昔はさぶかった(寒かった)。重い綿布団の口元が息で朝には硬く凍みあがった」。今でこそ屋根に発電パネルを置く立派な家でホクホクと冬を暮らしていなさるけれど、以前は僕の古家と同じような造りの家でお暮らしだったと言う。薪で冬越す難儀さはご承知だろう。 火を焚き暮らす僕の姿を 「街場の暮らしに厭いた者の酔狂だ」と笑いつつも、.「この木を伐って焚くがいい」と言ってくれた気がしている….近く温もりを感じつつ、僕は今夜も火を焚いている。
「井の中の蛙」 2015年12月06日(日)曇時々晴ネット検索すればひと通りの巷のもの事は解説付きで拾える時代になった。夜も昼もなく電子網の回線を開けっ放しに多種多様な情報を拾い集める者たちは、青瓢箪の小僧にして情報強者だ。 例えば我がセガレにして…埒も無い国際的戦争ゲームに始まり、政治経済ネイチャ芸能芸術歴史科学、そしてある事ない事諸々の噂の類….三流大学府の教壇に立てるのでなかろうかと思う知の量だ。津波の如くに押し寄せる情報の波間に漂いつ、よくも溺れもせず、呑み込まれもせず…フワフワと情報の大海原を越えていく。その様を僕はクラゲと呼ぶ事にする。
このクラゲ殿に向かい「そこの若い衆よ、そなたは奇をてらう末梢の情報に浸りすぎではあるまいか?ものの道理の本源を知ろうとさえしていないのではあるまいか?」と言ってみようか…親父が後生大事に抱く道理やら真理というものを語ってみましょうか。 そうしたところで、耳にイヤホン当てたまま聞いているのかいないのか…「まぁそのようなお考えもある」などとほざき、この老骨の渾身の諭しさえ、海流に漂う藻屑、一抹の泡と消えることでしょう。 流れる波間にただ漂うことをヨシとしないこの老骨の習性は、クラゲ殿からすればきっと、「結局のところ泳ぎを知らず回遊も知らず、やがて溺れ死ぬ運命」と映るにちがいない。
ならば、いっそのこと僕は、土中に穴を穿ち石積で固めた井の中に暮らす蛙を決め込もうと思う。毎日のテレビニュースは見ない、新聞も読まない。評論などという解説は所詮、机上のおためごかしみたいなものであるのだから無視する。 真理は内にある…世の中が言う意義や意味から耳を塞ぎひたすら内に向かい、外界の情報は狭い井戸穴から肉眼で見える空模様程度でかまわない。 井の中の蛙はもはや大海に憧れない。蛙がクラゲ殿の真似をして大海に挑み、塩水にでも浸かれば干からびて後がないではないか。
セガレ曰く、「親父は何かとイロイロ面倒くさいよなぁ」…確かに、そのような噺ではございます。.
東御市北御牧羽毛山区(115戸347人)には、百五十年もの長きに渡って千曲川の氾濫を食い止めてきた堤がある。安政六年(1859年)の洪水を機に、当時の技術の粋を尽くして完成のこの石積みの護岸堤防。台風一過、この古の堤、「安政の川除(かわよけ)」を歩いた。
祠の際に立つ案内(旧北牧村教育委員会、東京電力千曲川電力建立)、これによるとこの堤は、「安政6年8月(1859年)の水害の際、時の小諸藩主牧野康哉(やすとし)の命によって、災害復旧工事に着手。工事は里庄西野入謙三 らによって五年の歳月をかけた」とある。堤防長350間(576㍍)に渡り、最も高きは二丈五尺(7.5㍍)、幅最も広きは十五間(27㍍)。千曲川左岸を走り、東御市羽毛山区の集落、田畑を守ってきた。
「千曲川は度重なる洪水によって流れを変え、まさに千の曲がりの様相を見せる。沿岸に農地持つ農民は古くから水害に悩まされてきた。設計にあたっては寛永八年(1632年)、寛保2年(1742年)の洪水録をもとに入念に施工されたものである。明治43年(1910年)八月の台風災害時でも、下流一部が決壊したものの微動だにせず、地区を守った。村人に安らぎを与える水防の砦として今日に至っている」、とあった。千曲川の氾濫は、古くは平安時代の仁和4年(888年)に遡り記録がある。この仁和の水害とは、地震によって千曲川上流の南佐久郡小海町から南牧村にかけて岩層雪崩が押し出し天然湖を作り、これが決壊、下流域を襲ったもの。寛保2年(1742年)戌の満水では、山塊の崩壊が土石流となって支流を下り幾多の里を襲い千曲へ注ぎ込んだ。東御市域でも壊滅的な被害を受けた。
千曲川は、信濃(長野県)、武蔵(埼玉県)、甲斐(山梨県)の三国が国境を接する奥秩父の山々(南佐久郡川上村)を源流とする。南に八ヶ岳、北に浅間の山々を下る多くの谷水(支流)を集め、御牧ヶ原台地の突端の際をえぐりながら大きく西へ流れを変えて、やがて日本海へ注ぐ。この地にあって上流域とは、東御市から東、南北佐久両郡の2市4町4村。総面積は約1,684平方㌔㍍に及ぶ。台風や集中豪雨の時、川はいったいどれぐらいの流水量になるのだろう。はるか下流の中野市にある国土交通省千曲川河川事務所立ヶ花観測所では、平成18年7月観測史上2位となる8100立方㍍/秒が観測されたことがあるものの、さて。
安直な計算だが、台風19号時の(10月13日)最大雨量(1時間あたり30㍉)を例に、この雨が一気に流れ込んだものとして流水量を推量してみた。これが桁違いの数字になった。毎秒14,033立方㍍の流水量。大型ダンプにして、毎秒 1,400台分の怒涛である。
仮定にせよ、雨水が全量一気に流れ込むなどありえない話であって、このような流水量とは実際にはならない。上流域は森林が総面積のおよそ7割を占め、森が雨水を平準化する。しかし、過去の水害を見ると30㍉/h超えの激しい雨が降り続いた例はいくらでもある。千曲の濁流を眼前にしたことがある者にすれば、あながち絵空事でもあるまい、と思うのだった。
堤の内に広がる耕地は川が運んだ土質だろう。水田は無数の石積で囲まれていた。幾世代にもわたって築きあげた耕地は、砂地を嫌い客土したではあろうけれど、掘れば河床、下層は花崗岩の流石と砂利だろう。
ケヤキの古木とサイカチだろうか。空洞があいた太い幹、木瘤をまとった古木のその根元に幾つもの石塔が置かれていた。かつての水害に耐え根を張った古木を杜とするか…..互いに手を取り寄り添う道祖神の姿が微笑ましかった。
東の空に満月…..束の間、夕映えが差し、あたり一面をほんのりと紅色に染めた。
「千曲川は度重なる洪水によって流れを変え、まさに千の曲がりの様相を見せる」(史文から抜粋)。長きに渡って洪水から地区を守ってきたこの安政の川除(羽毛山堤防)を歩きながら、ボクは安寧の上にあぐらをかき、「史跡に足る十分な歴史的要素を持つ堤防だ」とのん気に思う。しかし、この堤は、遺跡指定などというものの範疇をきっと超えるものだろう。なお現役の使命を持つこの堤を遺物と呼ぶことなどままなならぬはずだ。堤に添って桜を植え見守ってきた地域の人々の内にある思いが、何よりの次代に引き継ぐ遺産なのかもしれない。
雲や河を見ていると、どれ一つとして同じものがなく、移ろい流れて行く。
流れる雲も波も結局は、二個の水素と一個の酸素(H2O)がくっついた粒の寄せ集めであるのだし、環境条件を整え型にはめて流し込めば、同一無比の形がどんどんできてよさそうなものだが…..そう単純ではないらしい。おそらく何千何万年をたどって見つめ続けたところで、瓜二つの形などあるまいと思う。天地の流れはきっとそれを許してはいない。
河も雲も海も虫も人も何もかも、皆、そうして流れていく。
その至極あたりまえの事を、ボクは今、目の前にしている。写真は一期一会、流れを止める。全て一瞬のコマ。
この煮えたぎるような濁流が、深山渓谷に見える。吹き上がる水煙が森から湧出だす雲に見える。 目を移して周囲の山々…..山もまたこうして、流れのうちに産まれ、消えるものかもしれないな、などと、思っている。
※ 外野談 「アンタ、何処をほっつき歩いていたのサ、川見てた?.畑仕事サボって?….ご飯食わせないからね…..ふんと、トボケてんだから」 (スンマセn)