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2017/2/16晴 フキノトウ       Petasites japonicus

フキノトウ215日の誕生花はフキノトウと書いてあった。花言葉は「待望」だそうで、これに全く異論は無い。この「待望」にはいろいろあろうけれど….僕には汲々とした枯渇の瀬戸際に立つ者の待望に近い。例えば奥山深く血眼で金鉱を探る荒くれ者の心情にも似る。酒壜を枕とする泥酔の耳元で「フキノトウが出たぞ!」と囁けば、目玉をカッと見開いて表へ飛び出すかもしれない。フキノトウと聞いただけで鳥肌が立ち喉が鳴り舌先が痺れる。

一か八かに賭ける金鉱掘りと違い、私にはフキノトウを確実に掘り当てる勝算がある。「もうしばらく春を待てばよろしいのに….」ぬくぬくと冬越しする者どもはのうのうと優雅にそぅ諭すけれど、聞くものではない。

霜で白んだ土手の斜面をかき分けると久しく見なかった薄緑色がのぞいた。自前の米とフキ味噌…..飯三杯はいける春の味。 山フキは苦味が強い。

日本原産キク科フキ属、雌雄異株、苦味アルカノイド+ケンフェール。

故郷は近くにあって想ふもの

北部区533 日本国 長野県 東御市 御牧原…….どんな所ですかと遠方の方に聞かれて、さぁ困った。

「近くに東京スカイツリーがございますのョ、オホホのホ」と誰にも分かる嘘をついて煙に巻いてもよかったけれど、自分が暮らす土地をまともに紹介できぬにようでは「呆けた」と思われかねない。

出身を聞かれ、いつも口を衝くのが 「浅間山がある小諸の、隣町」…..わが身を語らず近所の有名人を引き合いに出すとはナニヲカいわんや。

我が町東御市は平成の合併で立派な名を冠した。東の京より格上の東の御所(おんところ)…東部町と北御牧村の両者から一字取ってくっつけただけの話なのだが、東京あたりがどうってことなかった古い時代からこの地は皇(朝廷)と深い縁があった。

しかし、東京より格上と喜んだのも束の間、誰もこれを「とうみ」と読んではくれない。「トウゴじゃねぇし!ネット検索すると、と海だの豆殻飛ばしのとうみ(唐箕)が出てきて東御がねぇし!」などとゴネテみた所でどうにもならない。わが身の在処を語れぬのは恥だからちょっと思案…..

「世界中が注目の長野冬季五輪を招いた長野市まではちと遠く、新幹線は目と鼻の先を走るけど地下通過、最寄駅まで車飛ばして三十分余。コレマタ世界的な軽井沢は若干東の彼方、小諸なる古城のほとりに近く というよりは、千曲川旅情の崖っぷちにあって、昔は野っ原で馬、飼ってました」….やはり締まらない。

そこで、 「どんな所ですか?あなたのような素敵な方がお住まいですから、さぞかし…..」と来たら、「お察しの通りです。この地を囲って独り占めしたいほどです。ホレ、この通り」

ボクはこの写真を見せるとする。

 

帰ろうかな

畦道 今日からボクは一人ささやかにキャンペーンを張ろうと思う。名付けて「こっちの水はうまいぞキャンペーン」。都会暮らしの信州東御の息子や娘たちに向かい、「ソッチの水では腹もくだそう、まずかろう。帰っておいで」と呼びかけたい。故郷を離れた誰しもが思う郷愁の、その一瞬のノスタルジーに付け込み、若衆を引き戻そうと思う。

帰ろかなぁと思った時が都会暮らしの潮時だ、後先なんぞ考えたのでは元も子もない。故郷に錦などいらぬから、娘も息子も連れ合いもみんなひっくるめて己がシアワセのため、「荷物まとめ戻ってこいよ」と伝えたい。

夏がいく 道

高度成長期を遠の昔とする今でさえ一極膨張を続ける 大都会。進学や就職で都会へ出て行く傾向は今も昔も変わらない。

思えば新幹線誘致時の地元の謳い文句は、都会向けの誘引だった。「新幹線で首都圏を結べば通勤圏内になる」とは結局、都会のリタイア組や週末犬連れ散歩組を呼び込むばかりだった。別荘の固定資産税収入を地元住民に還元できる極寒多湿の国際的避暑地ならまだしも、先々何かと厄介な年金族を招くばかりの能では「お話にならん」とボク思う…..イッチマッタ。「道が開いたら行ったきり、可愛い我が子は行ったきり。この先お墓は誰が守る」とすがる想いの親心。我が家のほぼ真下の地下を行き交う新幹線は井戸水も枯らしただけのシロモノで、子らの帰省はいつも安運賃の高速バスだった。

そもそも暮らしというものは基本的に、どこであろうがそう変わりない。大凶作で餓死する危惧が田舎にあるならいざ知らず、今時どこでもコンビニはある。東京だろうが東御だろうが似たような暮らし向きだろう。ならば一層尚のこと….暮らしの苦労は故郷でと腕を広げて迎えたい。一区切りつけて還っておいで…..その先はどうにでもなる、ケセラセラ……

yuu空

都会暮らし十数年余の末に帰省帰着したボクの話をしましょうか。かれこれ四十余年前、ボクは首都圏に居て、学生時代はもっぱら土木工事のアルバイトで暮らしていた。現場の事務所兼労務宿舎を下宿先として、現場が変わるごとに転居しながら都内へ通学した。学費も何もかも土方仕事でまかなう見上げた根性の苦学生….という線は崩さないけれど、「個室、飯付き、風呂付、タダ酒ふんだん…私に比べると随分恵まれた馬鹿ボンボンだったのネ」(おかぁちゃん談)と言えるかも。

現場と飯場と学校を行ったり来たり。飯場暮らしの学生だから自ずと友人は現場の人、九州や沖縄や東北からの出稼ぎ衆だった。宿舎の食堂にいるとお国訛りのルツボであって、当初は何を話しているか分からなかった。「こっち来い、一杯どうだ」 とその辺は感で分かるとして酒が回るとサッパリ….

「ヌシャ、ドぎゃんもコぎゃんも、ぎゃぁギャぁギャァ」と言われたところでチンぷんカンプン。若輩者可愛さの杯に甘え「んダンダ、ナンモカンモそん通りタイ」などと東西ごちゃまぜで相槌打っていたこともあって自前の言葉さえ怪しくなった。東京近郊の地元の者にしても同じくイントネーションが妙なうえ、語尾に必ず「そぅジャンいいジャン」とジャンが付く。競輪好きの洒落を借りるなら「ジャンが鳴る (最終周回時に鳴る鐘)」だ。東京人たる人の多くは頼もしく穏やかであるとは承知するものの、それにしたってお前、お前の連発はない。生意気な連中としか覚えていない。沖縄人は皆やさしくて憎めない標準語の使い手だが仲間内に入ると外国語同然…..一つ国ながらお国言葉は多彩。ボクの都会暮らしは、訛りの渦というよりは、人種の坩堝(ルツボ)といえるのかも知れない。カルチャーショックを感じたものだ。

この国は一塊に見えるけれど、多様な土地に土着する者の集合体だ。生まれ土地が育んだ気質というものは生涯変わらず、国によって信州人と人(ジン)が付く所以だろう。都会に人が集うのは当然、銭金勘定、通語は円弗仕立てと….イッテヨイモノカ?

この信州東御にもある土着の気質….それがどれほどのものかは置くけれど、故郷とは根っこ、忘れようたってできるものですか。水が違えば人も変わっていくのかな?故郷の水は美味しいぞ。

池あぜ道

夕焼け胡桃

あぜ道胡桃の木

心は未だロッキング ダンスフェスタ

 ダンスがブームである。

「地元の東御市文化会館でダンスの発表会はできないかしら」

一人のママさんがそう言った。市内のヒップホップダンス教室で幼い我が子とダンスを楽しむ若い婦人だった。若い地元のダンサーと一緒に、数人からはじめたママさんたちの教室は瞬く間に数十人が集まる大所帯に育ったと聞いた。

ボクは流行には甚だうといけれど、フラ(フラダンス)やフラメンコに熱中するご婦人の姿をよく見かけた。ご老人が通う公民館の健康教室でもあれは体操というよりは踊りであって、演歌にあわせて肩や背筋を伸ばしているのだった。

ママたちは言う。「子供たちの野球やサッカーなどスポーツ大会はあるけれど、ダンス大会はこの地にはない。イベント会場に招かれて踊るがせいぜいであるぐらいです。踊る機会が欲しくて出演するけれど、主催者にすれば客寄せのアトラクションの扱いだから、衣装の着替えする場所すらない。一度、是非、子供たちの姿を見て欲しい」と、誘われた。

 昔、駅前で踊る若者に話を聞いたことがある。「何故に君らはズボンを下げパンツ見せるようなだらしない風体で踊るのか?それも人通りの激しい駅前の歩道でだ」…..オヤジの高飛車な問いかけは無礼なものだったに違いない。「帽子というものはひさしを前にかぶるものだ。なぜフードで顔を隠した上に横向きにかぶるか?みっともない!浮かれてないで勉強しろ!それがお前たちの本分じゃないか」…ガチガチと凝り固まった感性だろうが、これが本音だった。高校生だというその若者は言った。「仲間と待ち合わせするには駅前がいい」。誰か他の仲間も来るかもしれない…と彼は言った。ロッキング、とかいう楽しいフリまで教えてもらった。気のいい爽やかな若子だった。ショーウィンドウのミラー越しに、行き過ぎる人波が流れた。

人が集うところダンスあり….楽しいからダンスなんだ….ダンスは人を招く…ダンスは力を持っている、ダンスはいい。地元東御市文化会館でダンスの祭典を開こうか。

誰にも覚えがある学芸発表会ではない、一流の芸術公演をいくつも披露してきた756席収容の檜舞台での本格公演…企画を詰めた自宅や学校や体育館や公民館や、あるいは街角の通りや広場で踊る巷のダンサーを、ジャンルを問わずに舞台にあげる。老いも若きも幼きも、無論ハンディのあるなしもなく、無制限に出演者を募る。(ちまた)のいわば名も無き趣味のダンサーを一個の個性的なるアーティストとして扱う…ボクらはこれを基本に据えた。

開館から20年を迎えた町の文化会館が主催する記念事業の枠から薄い予算を取り付け、市民公募によるボランティア実行委員会で自主運営する企画をあげた。「我が子のダンス発表交流の場が欲しい」と願う市内のダンス教室のメンバーが実行委員に名乗りをあげた。手弁当、ダンスにひたむきな情熱を傾ける子供たちとその母親だ。公営の大きな文化施設をリハーサルを含め数日間押さえ、照明、音響やらの舞台設備をフルに使う。文化会館運営が指定管理制度導入に伴い民間の手に運営の一部が移ったことで可能となった文字通り市民主導…行政の言葉でこれをくくれば、「市民主導の行政との協働によるダンスフェスタ」ということだ。

フェスタ運営の成否は、この実行委員会の肩にかかっていた。素人の公募市民の情熱で、これが可能となるなら、これほど新鮮で痛快なことはないと思った。運営事務局を行政庁内に設け職員がこまごまと準備をすすめるしかなかったこれまでの行政主導による市民参加ではない。行政は指定管理制度を通じてこれを見守りサポートするだけ。舞台の主役も市民なら、企画から運営一切も市民の手による。これは自ずと「自主自律」の責任をダンサー個々にも問うものだった。 

総合プロデューサーを引き受ける際、私は実行委員に念を押した。「フェスタを皆さんは本当にしたいのですね」と、本気の度合をボクは計りたかった。出演者公募、折衝、スケジュール調整、スポンサー募集、広報、公演会場運営、ほか山とある準備の雑務を一手に引き受け、忙しさに本番当日の我が子の舞台さえ見れないかもしれない。硬固で柔軟な組織が必要だった。

主催者となった東御市文化会館は、出演者の企画演出要望を全面的に受ける姿勢で、「舞台技術体験型」を採り、舞台を開放した。市文化会館主催事業としての補助金のみでフェスタ事業がまかなえるはずもなく、多くの事業者や企業の皆様から大きな協賛を得ながらの開催となった。

▽第1回ダンスフェスタ  平成22年11月21日 (収容756席) 出演者総数250人、入場者数650人 ▽第2回ダンスフェスタ 平成24年2月19日 出演者総数約400人、入場者数1000人

多くの方々の大きな協力のもと、ともにうみだすみらい、とうみダンスフェスタは、まずは成功したと思う一方、会場を埋めるたくさんの観客を眺めつつもなお、これで終わりとはボクらは考えない。裏方として、安全第一に無事終えたことへの安堵感があるだけだった。イベントは予想の付かないことが多々起きるのが常….運営上のミスも表面化し、完璧だったなどとは言えるわけもない。ダンスフェスタの継続に緻密な企画の精査が必要だろう。 

公演を前に忙しく刷った会場向けのプログラムの校正ミスから、主催者を東御市文化会館とするべき所を文化会館の文字が抜けて東御市となった。訂正をかけはしたものの、来賓席の市長から直接、強く注意受けた。東御市主催と東御市文化会館主催の違いは、実行委員会のキッズやママさんにとって別にどうでもよい話だ。ともにうみだすみらい東御のフレーズの下、わがふるさとへの思いがあるだけだった。しかし、東御市主催となると市長は来賓席の人ではなくなる。事業自体の本質が変わる。あってはならないミスだった。主催者の文化会館には運営責任者であるボクの辞任の意を添えて謝罪した。翌日には文化会館の館長が経緯を説明し「間違いは間違い」として市長室に出向いて謝罪した。当然とるべき公施設の厳格さだ。ボクらは表には出ない黒子である。しかしダンスフェスタ開催の責任者であることは、市長自らが会場で公にしてくれた。責任をとるべきはボクだった。

実行委員会の皆様の中にも「実行委員会はほんとうに必要?」と運営のあり方に疑問を投げる声もあると聞いた。

時流に乗ったというわけではないが、ダンスフェスタの運営総括を務めた。踊りといえば、幼い頃の盆踊りと、高校時代のフォークダンス、インドシナのキャバレーでガラス越しに招く綺麗な金魚姫と一緒に揺れた記憶….いづれにせよ、人前で自慢できるダンスはない。

今回の第2回開催を機にボクは総括責任の任を降りる。別のステージで我流のステップを踏もうと思う。心は未だロッキング……ダンスフェスタ実行委員会の皆様、お後はよろしいか?

小諸散歩

 小諸城址の南、馬場町…「昔、馬場なり(乗馬や競い馬をする所)、侍屋敷15軒、内1軒は家老屋敷」と古記録にあるその通りの裏露地にボクの家はあった。

通りには共同の水道場があって、そこからの水汲みが日課だった。天秤にブリキの一斗缶の柄を掛け、よろめきながら自宅の水がめやドラム缶風呂へ水を運んだ。戸(城下の警護所)があったという無縁橋を渡って松井川を越えると、そこには「殿様のお墓」がある。殿様の墓石は瓦葺の屋の内の立派なものだったからさすがによじ登らなかったけれど、手ごろな墓石のてっぺんにはことごとく立った。近所の子供等が皆して墓の頭に居並ぶ姿…墓場の東南の谷にあった斎場(火葬場)から立ち上る荼毘の煙を煙幕に見立て、煙の中からさっそうと登場する風呂敷マントのヒーローとなって駆け回ったものだ。

懐古園(小諸城址)や七軒町、馬場裏(侍屋敷)、千曲川へと逆落としで下る時雨坂から中棚(島崎藤村ゆかりの鉱泉)にかけ、一帯はボクらの縄張りだった。千曲川にかかる戻り橋を挟む村部の屈強な子供連をも寄せるものではなかったし、商家で鳴らした街部の連もまた寄せなかった。毎朝、新聞配達で駆けた道…..朝鮮戦争の特需を足がかりに神武(天照)景気、岩戸景気へと、高度成長がはじまる昭和30年代….古城区馬場町ガキ軍団の思い出だ。

それからこの街は、どう変わった…..1128年(大治三申年)に遡り「小諸郷」と地名を遺すこの地である。辻に置かれた碑の丸石ひとつにもふと歩みが止まる歴史の街だ。ゆっくりと時間をかけて生まれ故郷を歩いてみようと思う。

 島崎藤村が、小諸義塾の教師時代(明治32年(1899年)4月ー明治38年4月)に歩いた頃の小諸の風景がある。

町家の軒を並べた本町の通りを一瞥(いちべつ)して…田圃(たんぼ)脇の道に出た。 裏側から小諸町の一部をみると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれて居る。  中には高い三層の窓が城廓(じょうかく)のように曇り日に映じている。 その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾(のれん)と対照を成して、土地の気質や殷富(とみ)を表して居る。旧士族には奇人が多い。 時世が、彼等を奇人にして了った(しまった)。もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀、礎(いしずえ)ばかり残った桑畠などを見、離散した多くの家族の可傷しい(いたましい)歴史を聞き、振り返って本町、荒町の方に町人の繁昌(はんじょう)を望むなら、『時』の歩いた恐るべき足跡を思わずにはいられなかろう島崎藤村「千曲川のスケッチ」から抜粋=      

『時』の歩いた恐るべき足跡を思わずにはいられなかろう…..か。士が枯れ、商が栄えた時代。与良町通りにも古い商家が残っている。

ノンノンorノンフィクション

ノンノンorノンフィクションとは、「この世はフィクションであって、ノンフィクションと思えるものも実は絶対ではないのだよ」 というボクの思い。記事カテゴリーに加えました。

ボクはジャーナリストではありません。ジャーナリストじゃ食えないので、ハローワークへもよく行きます。が、還暦近いのでどこも雇ってくれません。先日偶々どういうものか地域優良企業と名高い会社へ紹介され警備室勤務を拝命しましたが、社長さんに馴れ馴れしすぎたせいかなにかでケシカランとかでたった一週間余りで首。「ここの社長は天性のアホだなぁ」などと言い出しかねないオーラを発しているのかもしれません。じゃあ、またね」と片手をかざす挨拶はよくしますから 「ジャアナの爺さん」 と思ってください。

さて…..記事掲載するや否や「名誉毀損だ」などと、わが身(ダケ)可愛さの族に騒がれるのは面倒です。お偉いさんには何かとその手が多い事もあり….つまり「自分が分かっていないことが全く分からない輩」を相手にするほど煩わしいことはありません。だから、「ノン・ノンフィクション」でもあるのです 。机上の論法でもあるまいに、理路整然と問題の根本的な解決策などというものは、ありそうで実はないのが世の常であって….あれもこれも百花繚乱の論あってこそ良し。互いに好きなこと事をこきまくって、肩を抱きあい笑い合い、仲良しこよししている のが 健全 というものです。

ノン、ノンフィクション…これを「作り話かもね」と訳し、軽く受け止めてもらうのがよいのかもしれません。どうぞ健全なるお心で、併せて「ノンフィクションではない、こともないかもね」といった上等の感性をお持ちいただきまして、お楽しみいただきますように。

何を言ってるのか分からなくなりつつありますが….カテゴリー「ノンノンフィクション」の説明でした。

 

朝日新聞WEEKLY「AERA (アエラ)」にチョッピリ協力

かの有名週刊紙に載りました…ナドト、他人様のふんどしお借りするような真似は好きではない。資本金が何億だとか、発行部数が数十万部あるとか、そうした影響力を誇示するメディアの大看板には、敬意を払いこそすれ、どうでもいい。そもそも同業であり、ライバルである。

無名とはいえ、ダデヤDA-DEYAは自由に創り生み出す世界にいる。零細弱小の経営事情でさえ「清貧」というものであって、自主独立のネットジャーナリズム世界に身を置いている。とは言うものの…

我が家(ホームページ)は、編集発行人の常々のテイタラクのせいで危機的状況にある。お手柄とおぼしきモノは、多少尾ひれをつけてでも披露しておかないと、身内の信用さえ失いかねない。背に腹は変えられずというわけで…

朝日新聞WEEKLYAERA 10月3日号「原料は放射性下水汚泥、汚染肥料を無料配布」=記事・ジャーナリスト樫田秀樹さん=の掲載にあたり、写真原稿を提供したことを報告します。以下、東京で学生生活をおくる次男坊への電話報告をもって、この顛末の記事とします。

「 もしもし、元気にしてるか?…ご飯は食べているか、米はまだあるか?ジャガイモ送ってやろうか(中略)…」

「お前がネット情報強者であることは重々承知している。紙媒体はすでに時代遅れだと思っていることも分かっている。しかし、突然の話でなんだけど・・東京は中央区築地界隈の朝日新聞社を知っているか?昔、西洋ネズミのところ(東京ディズニーランド)へ連れって行った時、首都高速道からその本社ビルを見たことがあると思う。そのビルに同居する系列の朝日新聞出版という会社がある。そこがアエラという週刊紙を出しているのは知っているか?

細かいことを言うようだが、(株)朝日新聞社(秋山耿太郎代表取締役、資本金6億5千万円、社員数約5316人)の直系である(株)朝日新聞出版 (宇留間和基代表取締役社長、資本金8千万円、社員数約175人、売上高約132億円)が発行する朝日新聞WEEKLYAERA (尾木和晴編集長、発行部数246,592、定価380円)だ。

ん?話がチンタラとまわりくどい…電話料こっち持ちなんだから、お願い!も少し黙って聞いて頂戴。

そこに腕のいい記者さんがいて、俺が書いたダデヤの記事にいたく感激して、写真だけでも拝借したいと言ってきた=ダデヤ掲載 7月24日付=数多の報道記者さんたちが昼寝している隙に、一応スッパ抜いた記事だ。おそらく仁義を通したのだと思う。本来なら編集長さんじきじきにお願いして欲しいところだが、天下の大看板の頼みとあっちゃぁ、ムゲにもできまい。お前も知っての通り、震災報道で「放射能がくる」って防護用マスクの写真付きでデカデカと表紙に載せる姿勢=AERA 3月28日号表紙=が俺は好きだから、写真を貸すことにした。

掲載になったら駅の売店にでも売ってるから、見て欲しい。ナヌ?一冊380円なら豚丼特盛り喰えるってか…わかった、わかった!寸志ぐらい出るそうだから、今度、東京から戻った時に、その分ご馳走してあげる。焼肉食い放題にでも行こうじゃないの」

※その後一年過ぎても寸志は出なかったので、もはやこれまで。

参照 ▽ジャーナリスト樫田秀樹さん http://homepage2.nifty.com/kasida/ ▽アエラ http://www.aera-net.jp/ ▽ダデヤda-deya http://da-deya.com/?np=14

 

シアワセ

ちょっぴり永遠というようなものを刻み付ける日があるものだ。ほんの一瞬が永遠に忘れえぬひとコマになる…そんな日がある。なにも歴史的な出来事の話ではない。何気ない暮らしの中で感じたシアワセ。クリスマスやお正月に家族がそろうこと。同窓会や仲間との飲み会。そして大好きなあの人と…みんなちょっぴりの永遠だ。

 昨年のクリスマス、ボクは猫と一緒だった。テレビも七月の停波とともにやめた。ラジオがあるから大丈夫と思っていたが、どうでもいい話がやたら多くて耳障りで聞かなくなった。静かな静かな夜だった。生まれてこのかた初めてヒトリボッチですごしたイブかもしれない。

「さびしかったの?」

うんにゃ、そうではない。たかだか数日のヒトリボッチだ、何をか…ところが、煙草が切れて里のコンビ二へ出かけた時、店内にクリスマスソングが流れていた。聞き入る自分がいた。その時、不意にこのヒトリポッチが胸をついたのだ。クリスマスソングを聞きながら幼い我が子とすごした時が甦っていた。それはとても温かな寂寥だった。永遠というようなものを、知らず知らずに刻みつけてきた自分をふと思った。

 夕刻から山に舞った雪が、冷気と一緒に里に下り、夜半からホワイトクリスマス。静かなヒトリポッチの晩だった。

 

御牧原台地にて

 御牧原に引越してきて間もなくの頃だった。夜中に高校生のセガレが言った。

 「あ~コーラが飲みてぇ。今すぐ飲みてぇ~ッ!」

 冷蔵庫の中にないと分かると 「クソッ!俺には炭酸系が必要だってわかっていやがるくせに….神様、シティーボーイのこの僕に真っ暗闇の夜道を歩いて買いに行けとおっしゃるの?….無理ッす!」  以下、当時のセガレ№1のコーラにまつわる御牧原 (※文中、サシサワリある発言があります、炭酸系禁断症状の者の話、御容赦のほど)

缶コーラの自販機が近くにあるって?どこサ…?火の用心やぐらの 向かいにあるアレか…あそこだけボーっと灯りがともって自己主張してるヤツ….やっぱ、夜中に出るの怖えしッ!

虫がワンサカたかって、蛙がペロペロ舌出してへばりついてるに決まってる……嫌だしッ、ぜってぇ~嫌だしッ!!….俺は全部の虫が怖くて嫌だって言ってるんじゃないよ…わかってねぇな~、俺、虫アレルギー!刺すやつだめ!からだよわいし、避けて当然。・・・なんでこんなひ弱にうまれちゃったのかな?先天的に俺に責任ねぇし。

オヤジは厳しい自然の摂理つうのが分かっちゃいない。いいかい?他人の話に耳をかした事がないその耳をカッポジッテ聞いておくれ。コーラが飲みたい→自販機へ行く→虫がいる→蛙がいる→その蛙を狙って蛇がくる….自販機の上でトグロ巻いてるかもしんね….行けるわけねぇし。

この闇の中をシティーボーイがひとりぽっちで歩いたとしようぜ。小銭と懐中電灯と…おっと、キンチョール忘れちゃいけねぇな! つまり、いろいろ用意して行ったとしようぜ…(ばかばかしので中略)…そんでもって、自販機の前で、ヤレヤレつぅ感じで、コーラ取って、プシュッと蓋あけて、グビグビして、プふぁ~!なんつって一息入れたりするわけョ。それが油断なんだな、気をぬいちゃったら最後、もう帰ってこれねぇ…オシマイよ!

炭酸系がじわ~ッと体にしみわたり、充填レベルが正常値を回復、安心したその時、田んぼの蛙ちゃんの声が一斉にピタッと止む、 と思ったら、背中から、『私にも』 なんつって…ずぶ濡れの長い髪した貧血女が列作っ て並んでたらどうすんだ!

なに?近くに小さな御社(おやしろ)があるから守ってくれる、てか?…そんなもんまであんの!化け物が出るから建てたに決まってるじゃねぇか!…こぇ~!ホレホラ、鳥肌たってきちゃたゼ。iいやな土地へ越してきたもんだな….あのナントカ大橋に変な青い色の街灯いっぱい取り付けたのは、出るからだッて聞いたぞ。橋から何人も川へとびこんだんだってさ。…..どこへ行ってもこのあたり…..ウジャウジャだ、 うじゃうじゃ!

誰か、俺が歩くと感知して、真昼間みてぇにしてくれるでかい投光器、付けてくんねぇかなぁ……..お願い!車でチョチョッと峠を下り、コンビ二までひとっ走りお願いしまぁす…..たった往復2、30分じゃないッすか …ねぇ、おと~さまぁ~。あなたの運転テクニックなら軽トラの尻振って、行って来いで15分?イヨッ、峠のドリフト大魔神!超はえ~!

あの谷間のコンビ二、昼近くになってようやく陽があたるんだよな。 そんな谷間のコンビニでも俺達には命の綱よ….湿気った谷間じゃ、ポテチにカビふいてねぇか、俺シンパイ!…冗談だよ、冗談に決まってんじゃね。…ちょっと思いついたけど、俺がコンビ二の店長だったら、新しい看板作って道端に置く。どんな看板か聞きたくねッ↑? 「この街道、最後のコンビ二です」って看板、どう?…だって、最後じゃん!あの先ず~と店ねぇし!ママチャリ転がして行ったことあっけど、行けども行けどもコンビ二なんかねぇし!ほんとだし!…..アッ、また思い出した!あのコンビ二へ夜中に行くと必ずカブトムシ落ちてるって小学生が言ってたぞ、掃いてかき集めてくればいいって……カブトムシも明るい所に炭酸系あるって知ってんだな。

あれ?一緒にコーラ買いに行ってくれるの?ちょ、ちょっと待ってて!…….俺、ほうき、持ってってみるわ!

 

三界の供養塔

震災から数日後の罹災地の映像が今も脳裏に焼きついている。

「行方知れずの身内を探しあぐねているのかもしれない…」 テレビカメラは一人の婦人の深くうずくまった後姿を写していた。倒壊の自宅から探り出した衣類を着込み数日をしのいだであろう、丸く膨らんだ重ね着姿のその婦人は、自衛隊車両が行きかう泥濘の道にしゃがみこんでいた。  彼女は、しきりに指をからめては汚れを落とすような仕草を続けていた。こすればこするほどまとわり付くヘドロの滑り… 灰色に染まる泥の爪先を見つめながら、ただ呆然とした様子でせわしなくそれを繰り返していた。その指先が小刻みに震えていた。見放せば彷徨い(さまよい)かねない自我の意識を、懸命に繋ぎとめているかのような両の手だった。瀬戸際で持ちこたえた命がまだ紙一重の危うさの中にいる気がして、いたたまれなかった。  ニュース情報を漁ればあさるほど、殺伐とした思いがつのった。土壇場で役にたたないこの国の政治…と思った。国はいらないとさえ思った。テレビ中継の画面を相手に毒づいていた。 しかしそれが内を向いた。「オマエ二いったい何ガ出来ルノ?」

あの日、ほぼ同時刻に地面が揺れ、その後も地震速報が出る度に身構えたというのに….あれから9ヵ月が過ぎた今、2万人もの無二の人々が一時に失われたというニュース=死者数1万5841人(うち身元不明約680人) 行方不明者3493人・警察庁12月9日=をまるで遠い雲をながめるように聞く自分がいる。町の食堂で震災向けの募金箱につり銭を入れることはあっても、ボクが何かの役にたった、などと言えるはずもない。

かつてボクは大仰に書いたものだ。「いかなる時の流れも、いかなる混迷も、全ては個に帰結することを思う・・・唯一無二の輝きを放つ者、それもまた、この個だ・・・・」と。今ここにいる自分を基軸にしないで何を伝えるというのか。私のニュースは身の丈でいい。自分が責任をもって言えることだけを記していこう…そんな思いの中で書いた信条だった。

全ては個に帰結する・・か、それはあたりまえな事なのだが、震災で失った命の数を前にする時、ずいぶん冷酷な言い草であることだらう。ナラバ、オ前ハ、コノ先、ソノ 無二の輝 トヤラニ、どう向き合っていくノ?

ボクはもう一度ここから考え直さないと、何も始まらぬ気がしている。

 =写真=三界供養塔(立科町芦田