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ふがふがニュースの時間です

海の日2011718

ふがふがニュースのお時間です十三本歯の渋い男がフガフガとマイクに向かいお届けします。 さてリスナーのみなさん……と呼びかけたところで、ダレモイネカ?

いよいよアナログテレビ放送の終了の日が迫ってまいりました。「二十四日正午から最後の終了お知らせする画面に切り替わってから終了」です。

1953(昭和28年)にnhk放送開始(長野県は5年度の1858年)、とほぼ同じ時代を生きてまいりましたが、これでボクはテレビとお別れします。

思えば幼い頃、近所の名家で見たのが私の初テレビ。長野県小諸市馬場町の、世が世なら屋敷に立ち入ることなど到底かなわぬ武家屋敷のお内儀が、近所の子やらを奥座敷に招いてくださった鑑賞会。雑巾とブリキバケツを玄関口に置き、泥足を洗い清めてからのテレビ鑑賞だったと思います。今 となっては、何をみていたかはうろ覚えですが、長屋住いの徳チャンちの愛犬の名は、当時の英雄・力道山から取った「リキ」でしたし、うちのスピッツ崩れのキャンキャ ン犬もまた、名犬「リンチンチン」にひそかにあやかり、リンチン、略して「朕(ちん)」でした。恥ずかし気もなく名犬「ラッシー」とつけたのは旧家の泣き虫ボンボンで、柴犬の雑種にラッシーはねぇやと笑いものでしたな。

リキの主の徳チャンは、天下の空手チョップを真似て、終には手を腫らし、それでも懲りずに鍛えるとか言って、砂バケツに手をつっこんで爪をはがしました。ボクはボクで、豆腐屋のラッパがなる度に遠吠えする名犬「朕」に呼応し、正義の味方に大変身。鍋を片手に一目散に、悪漢に見立てた豆腐屋のラッパを追ったものでした。

我が家にテレビが入るのは小学生の頃。東京へ出稼ぎに出ていた親父が、上野から片道8時間の鈍行列車の人ごみかき分けて担いできました。そりゃあもう有頂天で「テレビがきたぞ」とふれ回ったやに思います。

みんなが皆、新鮮でした。文明開化の足音でした。見る側も、そして番組を作る側も本気だったことでしょう。その影響力計り知れず、いまこうして自社のブログで冴えないながらカキコしているのも、もとはといえば、硬派のドキュメンタリー番組の感動をひきずっているからかもしれませんな。

 それから幾星霜……テレビは様変わり。水戸黄門の印籠ではないですが、スカッとした正義の文脈では世の中何も語れなくなりました。昨日のニュースをいつまでも引きずって歩けなくなり……明日がどういうものか知らないけれど、明日へ向かって世は走りつつ、刹那のお笑いぐさで日々をしのぐようになっちゃった。自分の親戚の娘でもないのに、あっかんべ~(AKB)がどうしたこうしたと…..あるいは、パチンコは7の付く 日がお得だと….肥満解消にこの粒呑んだらほれこの通りと…..この肉やわらか~いと….どう考えたって知らぬ間に僕には微塵(みじん)の得もない情報が脳にしみ込んでいて、腹立たしくもなるのです、

 ボクは、これを機にテレビを捨てます。これからはネットから情報を取りましょう。日長一日パソコンと向き合う暇なニートのものですって? 誰もがゆくゆく歳をとり、さすれば、みんなニートじゃございませんか、早いか遅いかの違いです。どうしても見なければいけない番組は、足を洗って人の家にあがりこむか、ヤマダデンキで立ち見します。ゴマンと流れる大河の水をちょっとすくって舐めるぐらいの情報でボクは充分なんですよ。

それでは皆さんごきげんよう。途絶の電波とともに吹くはずの画面の砂嵐にボクは埋まっていくのです。さようならテレビ、観自在菩薩般若破羅 ち~ん!

 

718 、 怪獣「マーゴン」の襲来です

2011年7月18日1時30分発表 超大型で非常に強いマーゴンは、18日0時には南大東島の東約230kmにあって、北西へ毎時20kmで進んでいます。中心気圧は935hPa、中心付近 の最大風速は50m/sです。マーゴンは、18日12時には南大東島の北東約230km、19日0時には種子島の南東約150km、19日21時には足摺 岬の西約70km、20日21時には紀伊半島沖へ達するでしょう。マーゴンの周辺海域および進路にあたる海域は危険です、マーゴンの進路にあたる地域は厳重な警戒が必要です=気象庁サイト大型台風6号情報を一部編集、だれがつけたのマーゴン?)

 

観音寺桜

山腹を棚引く雲のように白く、桜並木が登っていた。

佐久市望月地区印内の集落のはずれ、県道を脇にそれると道は鹿曲川へと下った。太古の昔、蓼科山塊から押し出した土石泥流の末端部にあたるというその集落は、東西を川に仕切られた台地の頂にある。観音寺の集落をめざす幅3㍍ほどの林道だ。

今でこそ周辺の道路整備が進み、辺境の面影はないものの、かつては、バス停がある印内までのこの道が村をつなぐ生命線だった。近くの畑でトラクターを駆っていた○○さん(70・印内)が 「新しい林道を作った際に、記念に移植した桜だよ」と、並木の由来を教えてくれた。桜は、五、六十年前の旧本牧町の時代に植えたものだった。他の新道ができた今ではほとんど通う人もいない山の道だ。

 観音寺集落のいたるところに屋根に煙突を乗せたロッジ風の真新しい住宅が目立つようになった。滞在型農園「クラインガルデン」といった貸別荘のような施設(年間家賃39万円)もできた。20棟で現在246組が入居待ちなのだとか。「15年先まで既に予約済みということになります」と管理人が言っていた。新幹線佐久駅まで車で30分程度で通える農の村が、都会のリタイア組を呼び込みつ・・・・過疎に歯止めを、ということらしい。

明治の人

ボクの祖母は明治生まれの人だった。

ボクのグラグラ乳歯を硬い爪で引き抜いた人。生垣を這うマムシの首をつかみあげ一升瓶に放り込んだ人。焼酎漬となった蝮がいつのまにか病み上がりの者の強壮ドリンクや捻挫の湿布薬になったこと。晩年、畑で脳卒中をおこし這いずって家まで戻り来た人、その時の目をぐっと大きく見開き歯をくいしばっていた顔は、今も強烈な残像だ。キセル煙草の紫煙…….縁側でお茶をゆっくりとすする姿がどことなし凛(りん)として、おぼろげながら硬派の明治堅気というようなもの感じたものだ。

戦争で連れ合いを亡くしていた祖母は、戦中戦後の一時期、闇米の担ぎ屋をしていた。農家を渡ってかき集めた米や雑穀をザックにしこたま詰めては、列車で東京へと運び、売る。道端の草まで喰ったという時代だった。

闇屋にとって熊谷、大宮あたりが難所で、官憲が査察で強制的に列車を止めたという。満員の車内や列車の屋根は右往左往の混乱ぶり….そんな渦中、一人の大柄の男に助けられたと聞いた。男は闇米の詰まった荷物を足元に引き寄せ、査察の官憲を前に姓名を名乗り、祖母の闇米を自分の私物として引き渡さなかった。

小山邦太郎…….北佐久地方にあって、ボクの世代以上の者でこの名を知らぬ人はいないことだろう。ボクにとっては、小学校の修学旅行の国会議事堂見学を案内してくれた人、ただそれだけの人だとしか覚えはなのだが、終戦をまたぎ衆・参議員や市長を務めた小諸出身の生粋の昭和の政治家だ。

その自分の名を盾にして、無法の闇米を「私の荷物」として守ってくれたこの人物は、以来、祖母のヒーローとなった。祖母は亡くなるまでこの名を投票用紙に書き続けた。たとえ、その選挙が市議会や県議会選挙であったにしても、「邦太郎さんと比べれば貧相だけど」などとつぶやきつつ、いつも選択の基準にしていた。

過去の時代世相を知らぬ者にすれば、この名は、誇らしくもただ伝説の虚飾をまとっているにすぎないと思えるのかもしれない。しかし翻って、今時の政治家……明治生まれの祖母の眼からすればきっと、どの面見てもセコく嫌気がさす気がする。

目の前の人を見ず、想いを汲まず、思いつきの政策ばかり。上滑りのそんな政治家を目の当たりにするにつけ、商人でも学者でも、まして役人でもない本物の政治家の顔を描いてみる。

祖母は棄権しない人だった。一票の重さを人の重さと知る生粋の政治が欲しいと切に思っている。      

小山邦太郎 こやま・くにたろう (1889~1981) 参照 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/jinbutsu.html     

長野県出身。神戸高中退。1914年(大正3年)家業の蚕糸業を継ぐ。1928年(昭和3年)第1回普通選挙に当選、以降連続6回当選。鶴見祐輔らと明成 会を結成。1929年、民政党に入党。1940年米内内閣の海軍参与官、1945年鈴木貫太郎内閣の陸軍政務次官。蚕糸業国策運動を起こし31年蚕糸業組 合法成立に特別委員会委員長として尽す。1946年(昭和21年)全国森連会長。公職追放となり解除後50年から小諸市長をつとめ56年参議院議員に当 選。3期つとめ74年引退。井出一太郎は女婿。

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my sweet home 

家の中で火を燃やしている。

煙にまかれてたまらず外へ飛び出すこともままあるけれど、ヒトが居る所に煙があるのは自然というもの。いつの日か、お坊さんの読経とともに静かに焚かれるその日まで、せいぜい煙に巻かれて暮らすつもりだ。

ボクの住まいは築半世紀。古民家と、そのようなものである。

スローライフとかいう時代の雰囲気からすれば、この古民家になかなか捨て難い味わいを抱く人もいるだろうけれど、不動産屋に言わせると 「住めなくはない中古物件」。つまり、ぶっ壊して建替えが安全というシロモノだ。戦後まもなくこの地に開拓に入った先住の持ち家だった。

床といわず、窓といわず、隙間風が音をたてて吹きこむ冬は、さぶくてたまらなかった。零下の夜を過ごしつつ「確か昔、“しみしぬ(凍み死ぬ)”といった言葉があったよな」 などと幼い頃を思い出した。火が欲しい、焚き火ができなきゃ死ぬかもしれない。暖炉を作ると決めたのだった。

川原へ出かけ石を拾った。庭を掘り起こしては泥を集め、家の中に持ち込んでは盛り上げた。もともとお金がないから、自力でやるしかなかった。部屋の真ん中に石山がもりあがるにつれ、せがれたちは、「家の中に墓を築くつもりか」 とあきれた。ただ、「石造りの暖炉で焼き芋を焼くのもいい」 と言った時だけ、「それじゃあ、ピザも焼こうぜ」と食いついたけれど、結局、手を貸すつもりはないのだった。

ひとつふたつと川の石を集めてきてはセッセと積み上げるその様は、賽の河原の石盛りとでも映るだろうか……せめて百八つあるという煩悩の数を積み上げて、護摩を焚くように炎をあげて、世の平安を祈るのもいい、と居直った。

今時、危険極まりない行為だから、手づくり暖炉など誰にも勧めない。しかし、朝餉(あさげ)夕餉の煙、風呂焚く煙、ストーブの煙と、煙がのぼる暮らしを夢に見る。ボクは煙突のあるこの家が大好きだ。

 

冷暖完備の電化住宅に、ストーブをあつらえたがる種族とは、少し異なる点を強調しておきましょう。雪の降る日は暖炉の火を眺めつつ読書がいい、揺り椅子にもたれ、傍らに愛犬が寄り添いそんなけっこうお洒落な仕立てをボクも描いたりするから困るのだが……要するに、ボクの場合は、生存にかかわる火種であって、たぶん、百五十万年前に焚き火をしていた原人たちと同じあたりで火がほしかった。ヒト本来の筋金入のDNAが、焚き火をしないと生き残れないぞ、と騒いだという辺りでしょうか。

今時、オール電化の時代ジャン!電子でチンの時代ジャン!なのであって…… ところが、ボクは電子レンジひとつにしても、未だ何故あたたまるのか、一応理屈は分かるけれども腑に落ちない。回転する皿を一分二分と見つめ続けるのは、「もしや爆発するかもしれないね」 といった期待とも不信とも言い難い興奮がどこかにあるからで……そのうち時代が進み、電子レンジの斎場ができたりして…..などと馬鹿げた想像沸いてきたりで…..ごめんこうむりたいものである。

環境にやさしいスローライフは、結局、身一つが頼りのハードボイルドだから、重ねて言うけれど、決して他人様に勧めない。

第2回とうみダンスフェスタ 2月開催決定

第2回とうみダンスフェスタの開催が決まった。東御市文化会館会館20周年記念事業の一つとして、来年2月開催する。

「もっともっとたくさんの人と一緒に、いろんなダンスが楽しめたらいいね」 チビッコたちの声が、フェスタ開催のきっかけだった。
市内和のコミュニティーセンター(公民館)をレッスン会場にするダンスクラブ「ビッグハンズbighands」の母親たちが中心となり、実行委員会を設立。どんな形の催しににするのか考える中で、基本に据えたのは、我が子を夢中にさせたストリートダンスの 『自由さ』 だ。
踊ることに型をはめず、踊る者に差異をつけず、ジャンルや地域、年代、性差、身体的ハンデキャップなどを越えたダンス交流だ。

20th anniversary San Terrace

第2回 とうみダンスフェスティバル

the 2ndTOUMI DANCE FESTUVAL

 

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 さくら、さくら・・桜道 ①

さくら、さくら・・・街道や峠道に、校庭やゲートボール場に、橋のたもとや堤に・・・人に寄り添うように咲き誇り・・・もうすぐ満開の花色だ。


去年は4月半ばを過ぎて雪だった。花に雪が降り積もり、久しくなかった桜雪。

今年はなぜか、桜便り(気象協会開花予想)のニュースが小さいのが気にかかる。列島の南から波を打って駆け抜ける前線がちょうど東北地方にかかるのは、この地とほぼ同じ時期だ。


さくら、さくら・・・古代色図鑑の桜色は、冬の純白の雪色に紅をほんの一滴を溶かした淡さ。「桜」の文字をなぞりながら「散る花びらの下に女と書く」と詠もうか・・・それはたとえば、描ききれない遥か彼方、夢まぼろしのようなもの・・・ほのかな女人の色香のようなもの・・・・

「一緒にお花見にでかけましょうか」、そんな声が欲しくもなる。

一足お先に、去年の桜(2010.4.17撮影)でお花見だ。

 

桜の道①  廃線は桜街道となった 小諸市押出 布引鉄道桜並木

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雪花

 「まるで満開の桜のようだね」

「そうね、冬のお花見…..」

陽を浴びて融け落ちる花を見ています。雑木林の峠道、空を映して青く続いていました。この冬何度目かの昨夜の雪は日の出とともに流れる淡雪でした。

暑い夏には冬を思い、凍てつく夜には春を思い、なんとまぁ待ちわびて、また待ちわびていくことよ。

野焼き

 春分の日(祝日)

 

 

 

 

「春分にあたり自然をたたえ生命をいつくしむ日」と広辞苑。

人は天の軌道をとらえて暦とした。春夏秋冬の季節をさらに二十四の節で分け、お天道様がちょうどま東から昇り真西へと沈み、昼夜の長さを半々にするこの日を節目とした。歳時記を繰ると、雀が巣作りをはじめ、桜が咲き、雷が聞こえ始める頃・・・と、待ちわびた季語がほころぶ。東御市御牧原南部区、野焼きの煙が、農の始まりを告げていた。

冬枯れ色に放った炎が風に押され、踊り狂う連のように土手を駆けては黒々と焼き跡を残すさま・・・筆にたっぷり含んだ墨汁を真一文字に引いた春の筆跡。

今年は畑を借りた。誰それのためなどと、言うのはおこがましい。 いっしょうけんめい馬鈴薯をにつくろうと思っている。

畑焼きは、休耕の荒れ畑やほったらかしの山林に飛び火して、大事になるから要注意。

渡邊幸千代さん(76・小諸市)

 

昭和48年(1973)から38年間にわたり毎年開催の少年野球大会が長野県小諸市にある。
大会の産みの親、東健児代表の 渡邊幸千代さん(76・小諸市与良)=写真=に聞いた。

 

 

 

毎春、秋の2回、地元東信地方や北信地方の野球クラブおよそ三十余チーム、ざっと300選手が集う伝統の大会だ。

息の長いこうした大会は市などが主催し運営をあてがうことが多いものだが、主催は市内の少年野球チーム「東健児(あずまけんじ)。登録選手数24人のクラブチームだ。主管をスポーツ少年団指導者協会にゆだね大会運営の協力を得るものの行政の直接的な補助金はなく自力開催を続けている。

「お金はないですよ。1チーム5千円の参加費を運営資金にあてますが、チームの保護者会(小山宗一会長)の皆さんや審判団の協力あればこそ、ギリギリの運営です。子どもたちが大好きな野球に熱中している姿が見たい、応援したい、ただそれだけです。皆の思いもいっしょ。そんな想いがスクラムを組み輪となって、大きな力が生まれているのかもしれませんね」。

市内に試合会場を4ヵ所、2日にわたっておさえ、これを毎年2回。企業からの協賛金も求めず、大会にありがちな来賓の祝辞も「子どもたちには余計なもの」としてしない。「厳密に言えばスポンサーというものがないわけじゃないよ。例えば、市体育協会が企業協賛を得て作ってくれた優勝旗が一本あるし、市教育委員会も後援してくれる」

「才能がお金を生むプロの世界はそれとして、アマチュア選手まで銭にまみれた時期があった。きれい事では済まない一面があることは重々承知しているけれど、どこか妙なことになっている。無垢なものは無垢のまま、チビッコたちの無心さをそのまま受け止める大会があっていいでしょう」。自主独立の運営にこだわるのはそのため。無垢なものは純粋のままに・・・38年にわたり続く少年野球大会の主催者。

 稼業は一般廃棄物運搬業。早朝から軽トラックで得意先のゴミ収集に走る毎日。高校野球が始まると連日試合会場へ。「大きく育った子が、きっとグランドにいる」。内野席にひとり陣取り、見守っている。

放射性物質 拡散

15日午前11時30分の記事です

東京電力福島第1原子力原発で放射能漏れ!

避難区域原発30㌔圏へ拡大 20㌔~30㌔圏は屋内待機を指示

=写真 福島第1原子力発電所=

 

 東日本地震で被害を受けた福島県双葉郡大熊町大字夫沢北原にある東京電力福島第一原子力発電所から放射性物質が拡散している。

人体に大きな影響をうける毎時最大400ミリシーベルトの放射線を原発内で検知。政府は周辺退避区域を20㌔圏から30㌔圏内へ拡大、20㌔から30㌔圏内の住民には室内待機を指示している。

東北地方太平洋沿岸を中心に壊滅的な被害を受け、いまだ広範囲にわたって救出作業が進んでいないなど混乱する中で、住民が被曝する可能性がある事態だ。

菅首相     「冷却装置が稼動しない状況が続いている。 1号機3号機の水素爆発に続き、4号機についても火災が発生し放射性物質が飛散した可能性がある。20㌔圏避難指示 30キロ圏についても外出しないで屋内待機をしてほしい。 第2原発についても10㌔園内退去をお願いする。これ以上放射性物質が出ないように全力を尽くしている。国民には冷静な対応を」

現在、高レベルの放射線は感知せず放射性物質の拡散はしていないもようです。

 福島県南相馬市長 午後7時15分

我々は政府の指示を受け全力で退避した。我々はすでに水、食料、燃料が不足している。市民の中には県外へと自主退避した者もいる。日々不安が募る中で、救助や遺体捜索もできずにいる中で、今度は原子力発電所に伴う避難だ。今我々は避難所で屋内待機の指示に従っている。これは苦渋の決断だ。この上不安をあおる事態にならぬよう、国も県も我々を見捨てることのないよう、国の使命をもって、救助に全力をあげて欲しい。